2017/9/2

急に相対性理論について知りたくなったので図書館で『相対性理論 常識への挑戦』という本を借りて読んでいた。22歳にもなって夏休みの自由研究をする小学生のような行動で悲しくなる。光の速度が一定なので相対的に運動していると時間や空間が変化するということは知っていたが、そうなると「双子のパラドックス」が生じてそれがどう解決するのかがわからず悩んでいた。それゆえにそのあたりに注目しながら読んだり調べたりしたところ一定の理解が得られたので書いておきたい。まず第一に知ることができたのは光の速度がどんな状況でも一定であるということが実験によって経験的に確かめられているという点だ。単に計算上うまくいくために仮定された公理だと思っていたのでちょっと驚いた。次に光の速度が一定なので相対運動によって光が遅く見えたり早く見えたりするのは時空が歪んでいるからであるという特殊相対性理論の帰結を確認した。そこから進んで一般相対性理論では重力=加速度(等価原理)による時空の歪みも考えられる。基本的に重力の強い方が時間の進みが遅くなり、それはつまり(向きに関係なく)加速している方が時間の進みが遅くなることを意味する。以上のことから双子のパラドックスについて考えてみよう。双子のパラドックスとは、地球に対して動いているロケットを地球から見ると特殊相対性理論によってロケットの時間が遅くなっているように見え、逆にロケットから見ると相対的に動いている地球での時間が遅くなっているように見える現象をいう。しかしロケットは地球から離れる時と戻るときにそれぞれ加速(減速も方向の違う加速である)を行う。そこで一般相対性理論により加速している(強い重力のかかっている)ロケットの方で時間が遅れる。特殊相対性理論一般相対性理論での時空の歪みを合算すると結局はロケットでの時間の方が地球からの観測による計算と合致する形で遅れている。これはロケットから見て特殊相対性理論(相対運動)による地球での時間の遅れよりも一般相対性理論(加速)によるロケットにおける時間の遅れ(つまり地球での時間の加速)が上回ることによる。というわけで亜光速での宇宙の旅から帰ってくると地球の人々は自分より速く老いているというウラシマ効果が現れるのである。

2017/8/30

今日も"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。2章を読み終わったところで筆者たちの言う構造実在論というものが大体見えてきた。これはこれまでの科学的実在論のようになんらかの個物に実在性を与えるのではなく、現象間の関係性などの様相性を持った構造に実在性を与えるという考え方であるらしい。こうすることでパラダイムシフトにおいて科学的実在論が被ることになる存在論的な不連続性が回避される。なぜならパラダイムシフトの前後でも自然法則や方程式の構造は変化していないからだ(いくつか実例が示されていたが科学の変化全てがそうなっているかどうかという点には疑問の余地がある)。そしてまた科学の対象に実在性を認めているのだから、構成的経験論(反実在論の一種)ともまた異なる立場である。さて、そのような構造実在論で言われる「構造」は非形式的にいえばデネットのいう「リアルパターン」であるらしい。このリアルパターン論を構造についての実在論と解釈する視点は個人的に面白かった。確かにパターンをなんらかの個的対象だと考えるよりは構造やプロセスだと考えた方がしっくりくる。その場合に名詞が何を意味するかというとそれはリアルパターンの「場所」を指定するものであるらしい。ただしデネットはこのパターンが実在するというのは「明示的イメージ」上に実在するという意味だと考えているようである。明示的イメージ上の実在をそのまま科学的実在論で言われるような実在と受け取ってよいのかは検討に値する。個人的には我々はそれぞれのイメージの外の世界を知ることはできないのだから、世界=イメージと考えてもいいような気がしている。これは現象学的な視点になるが、ハイデガーはそこから進んで現象=存在者だと捉えているようだし結構ありなのではないだろうか。

2017/8/29

相も変わらず"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。2章は"Scientific Realism, Constructive Empiricism, and Structuralism"という題で科学的実在論、ファン・フラーセンの構成的経験論の紹介と検討、また筆者らの立場である「構造実在論」の紹介が行われている。科学的実在論の問題としていわゆるパラダイムシフトの前後で科学理論が言及する対象が変わるため、実在するとされるものも変わってしまう(存在論的非連続性と呼ばれる)という点がある。そのあたりに対して科学的反実在論がいろいろ考えられるのだが、その一つに構成的経験論がある。これは我々が得る経験を十分に説明するような理論が科学だという主張であるらしい。これに対しても様々な問題が提起されていたが、その中でも個人的に大きな問題だと思うのが観察の理論負荷性である。理論に対して中立的な経験内容というのはいわゆる「与件の神話」でありセラーズが『経験論と心の哲学』批判していた点だった。それならばどうするのかということについて、筆者たちは構造実在論というのを打ち出すようだがその全貌は未だ明らかでない。個人的なオルタナティブとして、存在論を最近っぽくしたバーションの実在論を考えられないだろうかと思う。それはセラーズの言う「明示的イメージ」や「科学的イメージ」上に想定される対象が実在するものだという存在論だ。ただしこれではいわゆる科学的実在論の客観性が担保されるかは定かでない。「科学的イメージ」の客観性はどのように担保されているのだろうか……。

2017/8/15

図書館で見つけた『量子革命』という本を読んでいる。物理学の理論の話が平易に記述されていて読みやすく、また綺羅星の如き物理学者たちの人間関係が生き生きと描かれているので読んでいて楽しい大変良い本だと思う。出てくる人物がぽこじゃかノーベル賞を取るのでノーベル賞のバーゲンセール状態である。さて、読んでいて興味深かったのがハイゼンベルク不確定性原理を見つけた際に念頭に置いていたのが(アインシュタインから伝え聞いていた)哲学者コントの思想であった点だった。それは観察結果は観察者が依拠している理論に依存するという思想である。その後ボーアは量子の波と粒子の二重性は観察実験がどちらの性質を対象としているかによってそれに対応した性質が現れてくると主張する。はじめ私はこの量子の二重性を世界の実在に関わるような問題だと考えていたが、むしろ問題の本質は観察の方にあることがわかった。つまり問題としては現代の分析哲学で取りざたされる「観察の理論負荷性」と言ったものと同種のものなのである。それは結局純粋に客観的な観察(経験)などは存在せず、あくまで現象は私たちがそれを見ているという限りでの現象なのだということだ。量子などのミクロの世界ではただ「見る」ということにも困難が生じる。なぜなら微小な粒子に光をあてると光の粒子との衝突によってその粒子の運動量が変わってしまうからだ。量子力学はこのような私たちの経験の可能性の制約の地平に突き当たったのだと考えることができる。そしてその制約の外にある「物自体」について私たちは波とも粒子とも判断することはできない。

2017/8/13

そういえば最近箸休め(?)にプラトンの『パイドン』を読んでいて、「霊魂不滅の証明」のあたりを読み終わった。心身二元論に反対するものとしてこの証明にはすべて反論しなければならない。概ね「魂」という言葉の定義が曖昧で、いろいろなもの(意識、生命など)を「魂」という言葉に読み込んでしまっているところからこの証明が来ている気がする。例えば想起説に基づいた証明では、経験からは得られない知識の存在から一気に魂が生前も存在していたことまで主要される。現在ではチョムスキーなどが「刺激の貧困論証」などと言っていることと似ているが、その場合そのような知識は脳に器質的に備わったものだと考えられる。こういった後付けの科学知識の話を抜きにしても、想起説による証明には知識がすべて経験から得られるという(おそらく誤った)前提がある。つまり生前に魂が存在していなくても私たちは経験によらない知識を最初から持って生まれることが可能だろうということだ。他に「生きていること」というイデアは変化しないから魂も不滅であるという証明もあった。確かに「生きていること」そのものの概念(形相)が生成変化することはないだろう。しかしだからと言って思考する実体が不滅であるということにならない。ここにも「魂」という言葉が曖昧すぎるという問題があるように思う。

2017/8/12

今日も"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいてあんまり盛り上がるところはなかったが以下の部分を取り上げておきたい。

However, there is a frequent tendency to go on to use the primacy of fundamental physics as if classical physics is still the approximate content of fundamental physics. This, we contend, is the basic source of the widespread confusion of naturalism with the kind of ontological physicalism we reject. Classical physics was (at least in philosophers’ simplifications) a physics of objects, collisions, and forces. When ‘fundamental’ physics is interpreted in these terms, as an account of the smallest constituents of matter and their interactions, it seems reasonable to many to think that everything decomposes into these constituents and that all causal relations among macroscopic entities are closed under descriptions of their interactions.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p44)

どうして「自然主義」が「存在論的物理主義」と混同されるのかというと、哲学者たちの物理学のイメージが古典物理で止まっているかららしい。古典物理では微小な粒子とその衝突が問題となり、そのような事物について記述したり予想することでそれらに「存在論的コミットメント」を行うことになる。そうなると物理主義がこの世界に存在するものについての主張(存在論)に結びつくのだ。しかし現行の物理学をしっかり学んでいるとこのような事態は発生しないらしい。その点についてはこの後の章で述べられるらしいのでその説明を待ちたい。

2017/8/10

相も変わらず"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"を読んでいる。筆者たちが考える正しい形而上学のやり方というのは以下のようなものであるらしい。

Any new metaphysical claim that is to be taken seriously should be motivated by, and only by, the service it would perform, if true, in showing how two or more specific scientific hypotheses jointly explain more than the sum of what is explained by the two hypotheses taken separately, where a ‘scientific hypothesis’ is understood as an hypothesis that is taken seriously by institutionally bona fide current science.
(James Ladyman and Don Ross with David Spurrett and John Collier "Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized" p30)

二つ以上の科学的仮説を結合してより説明力を高めるような形而上学的な主張こそが真剣に取り扱われるべきだそうだ。この後でこのパラグラフの内容をより深めていたが、興味深かったのが形而上学が科学の仮説を結合するということの意味だった。それはすなわち科学の変化に従って形而上学も形を変えていくということである。昔の哲学者はとにかく自分の思想が究極であって絶対的な真理だという書き方をしがちだが、この哲学観はそういった傲慢さを排除しているように思える。こういった傲慢さの背景には、世界というのは私たちの認識とは関わらずに確固として一定の性質をもって存在していて、一度それを正しく認識できたならそれこそが不変の真理の発見出るという考え方だろう。私たちは認識論的転回、言語論転回の後を生きている。それはつまり、私たちがアクセスできるのはあくまで私たちに認識された世界であったり私たちの言葉で表現された世界であるということだ。科学もまた人間が持つ世界の認識の仕方の一つ(科学的イメージ)であるからそれに基づいた形而上学があっても良いということなのだろう。この哲学観は一見哲学の特権性(そんなものがあるとして)を損なうようだが、メリットもある。それは科学が変化し続ける限り(その変化は今後も続いていくと思われる)哲学は終わらないということだ。それゆえに哲学者たちは完全な哲学的真理の発見によって飯の種を失うという心配がない。