2017/8/1

ダークナイト』しか見たことがなかったのでネットフリックスで『バットマン・ビギンズ』から三部作を見ていた。『ダークナイト』だけ異色な作風で『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト・ライジング』はヒーローアクションとして王道の作りだったように感じる。『ダークナイト・ライジング』の最後のシーン、ゴードンがバットマンの正体に気づくシーンが好きだった。核爆弾と心中しようとするバットマンに対してヒーローが必要だというゴードンに、「ヒーローとはあなたのような人だ」と返答するバットマン。そこで『バットマン・ビギンズ』で両親が殺されたブルース・ウェインに若い頃のゴードンが励ましの言葉をかけたシーンがフラッシュバックする。このシーンであの日からゴードンがブルース・ウェインにとってのヒーローだったことが明かされる。ゴードンが三部作を通して(正体を知らない人間の中で)唯一と言っていい通してバットマンの理解者だったのに対して、バットマンのゴードンに対する思いについてはあまり描写がなかった中でこのシーンが最後にやってくるので大変感動した。

2017/7/31

なんとなく見ていなかった『アリスと蔵六』のアニメの最後3話を見た。「ワンダーランド」が現実世界の物理法則を模倣して新しい宇宙になるという話で、宇宙進化論を思い出していた。宇宙進化論というのは、宇宙がそれぞれ少しずつ物理法則の異なった子供の宇宙を生み出してそれらの世代交代によって宇宙が進化していくという考え方らしい。物理法則の差異によってより子供の生み出しやすい(?)宇宙ができればその適応度が高いということになる。「ワンダーランド」が世界の物理法則を真似ている、つまり複製しているならそれは宇宙が子供を生んでいるプロセスである。しかしこの宇宙進化論というのも話のスケールが大きすぎるというか、別の宇宙なんて観測不可能だしまさに"Just so story"だと思う。というより宇宙に物理法則が備わっている、もしくは法則という形をしていなくてもなんらかの性質が備わっているという点も議論の余地のある想定なのではないだろうか。

2017/7/30

ネタバレになるといけないので名前は伏せるがある小説で「遺伝子の保存という観点から見て親殺しは優れた行為である」という主張を見つけた。つまり親の遺伝子は子供という若い個体に複製されたのだから親のものはもう必要ないということらしい。この考え方は誤りなのでそのことについて書きたいと思う。仮に親から子へと遺伝子が完全に複製されるとしても、特に作中で言われるように父親の場合それが新たに複製される可能性は残っている。なぜなら子供を作った後でも親には生殖能力がまだ残されているからである。だから親を殺すことは自分と同じ遺伝子が複製される可能性を狭めることにつながり、遺伝子の保存という観点からは明らかに誤った行動である。次に親から子への遺伝子の複製は減数分裂によって完全なコピーとはならない。それは父親と母親から半分ずつ受け継ぐもので、さらにその過程で様々な変化を被っている。それゆえに例えば作中のように父親が自分の遺伝子の単に古いだけのコピーであるという主張は間違いである。以上の点から上記の命題は誤りなのだが、それにしても仮にそれが正しいなら自然界で親殺しは横行しているはずであり、直感的にも違和感があるだろう。まあ小説内の薀蓄に真面目に反論するのもナンセンスだと言われればその通りなのだけれど……。

2017/7/26

今日もひたすら発表のためにスライドを作り続けていて大体出来上がった。今回英語でスライドを作っていたけれど、英単語をミスタイプする(というか綴りが怪しい)たびに校正機能が働くので大変便利であった。それと同時に私が英文を書いているのか校正機能が英文を書いているのかだんだん曖昧になってくるような気がする。これが進んでいくと例えば神林長平『言壺』の「ワーカム」とかの発想へと至るのだろう。しかし日本語の校正ソフトはあまり干渉してくる感じがないのに、英語だと干渉が如実に感じられるのは言語の複雑さの違いなのだろうか。日本語では綴りに対して漢字がいくつも考えられるので校正するのが難しそうだが、英語は綴りが変換されないので間違いを即座に修正できてしまう。ふと思いついてここまでの文章を日本語を校正してくれるサイトに入力してみたら「綴り」という字が難読であるとかところどころ助詞が不足しているとか指摘してくれて面白い。しかし入力した文章に関係ないアルファベッドを混ぜ込んでみても反応しないのでそのあたりは難しいようだ。反対に英語の校正ソフトはかなり進んでいるので、誰が文章を書いているのかわからなくなる現象は英語圏の方が深刻なのかもしれない。ダグラス・ホフスタッターが自動校正機能に怒り心頭であるらしいという話をどこかで聞いたことがある。

2017/7/24

ニーチェ道徳の系譜』『禁欲主義的理想は何を意味するか』を読んでいる。ニーチェのいう「反感(ルサンチマン)」はどうやらショーペンハウアーの「否定意志」(=「禁欲主義的理想」)を指しているのらしいという発見があった。その上でこの禁欲主義的理想が生の否定ではなく「生を維持する」ことに役立つと述べられている。ここはまさに私の卒業論文のテーマであり注目ポイントだ。どうやら禁欲主義的理想には「弱者」たちの「反感」を弱者たち自身に向けさせることで「強者」たちがそれに毒されないようにするという意義があるらしい。さてここで思うのはニーチェはかなり素朴に優生思想を信じているらしいということだ。強者が弱者から保護されなければならないというのは確かにそうかもしれないが、今日強者である人が明日弱者になっていないという保証はどこにもない。つまりここでの問題は強者と弱者を固定的な階層だと捉えている点である。今日の環境が明日も同じものである保証はない。強者と弱者は環境に相対的に決まるものでしかないので、その立場は環境の変化とともに逆転することもあり得る。例えば隕石の落下によって強者であった恐竜は滅び弱者であった哺乳類が栄えることになった。そしておそらく、「反感」を持たない強者というものは存在しない。ある分野で世界一の人間でも、他の分野で自分より優れた人間から見れば弱者たり得るからだ。私たちがニーチェから学ぶことは強者となって弱者を侮蔑することではなく、自分の中に常に巣食う「反感」の危険性やそれと戦う術だろうと思う。

2017/7/21

研究発表のスライドを作るのが大変で気晴らしにまた『道徳の系譜』を読んでいた。今日読んだのは第二論文『「負い目」・「良心の疚しさ」・その他』である。第二節では風習や道徳によって人間が「算定しうべきものにされた」と述べられている。これは恐らくデネットが"Darwin's Dangerous Idea"で言っていた"conversation-stopper"としての道徳という考え方に近いものを指しているのだと思う。つまり道徳に従っていることによってある程度人間の行動が予測しやすくなるために、協調行動が成り立つというものだ。また12節では以下のように述べられている。

ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、及びそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。
(『道徳の系譜』第二論文第12節 p115)

これは例えば目が見るために作られたというような誤謬であると説明されている。つまりこれはダーウィニズムの議論における"adaptation"と"adaptive"という二つの語の違いをさしているものだと思われる。ある時点の環境に対して適応した結果得られた形質が、必ずしも現在の環境にいて適応的なわけではないし、同じ目的のために使われているわけでもない。グールドはこういった事態を特に「外適応」と呼んでいるが、進化のプロセスは基本的にそうなっている。こういった議論は例えばスペンサーなどの社会ダーウィニズム批判で出てきていたと記憶しているが、そこにニーチェが影響を与えたか与えられている可能性があるかもしれない。

2017/7/20

道徳の系譜』の『「善と悪」・「よいとわるい」』を読み終わった。いろいろな部分が本当に面白いのだが、哲学的に興味深かったのは13節だった。ニーチェ形而上学的には「力への意志」=ここでいう「作用」があるだけだから、「作用主体」というものはフィクションである。その作用主体という仮構が、弱者が自身が弱いことを主体の自由のもとで選択したものだと偽るために生み出されたと述べられている。そして自由があるからこそ強者は「弱くあること」もでき、その強さもまた自由のもとで選択される(という偽りが生まれる)。そこにおいて弱いことが道徳的な「功績」として扱われ、強いことに対して不道徳の烙印を押すことが可能となるのである。道徳的な主張も面白いが、ここで作用主体が「言語の誘惑」によって、つまり言語が作り出す誤謬として存在するという点がカント的で面白い。ニーチェもカントやショーペンハウアーといった哲学史の中で自分の思想を展開しているのだなあという発見があった。