2017/6/17

今日は"Sex and Death"の13章を読んだ。ここでは社会生物学進化心理学といった、ダーウィニズムの応用的な話題が扱われている。行動主義心理学において自然選択を考えると振る舞いのレベルでの進化に焦点が当たる。しかし選択される振る舞いを同定するのはかなり難しい。そこで振る舞いではなくそれを実現する神経システムの方へと目を向けたのが認知科学であるらしい。だがそこにおいても、脳において選択されるモジュールをどう決めて行くのかという問題は起こる。チョムスキーなどによると「刺激の貧困論証」によってある程度の機能部位は特定できるようだが、すべてがうまく行くわけではない。デネットミームという選択の単位を出してくるが、この文脈で考えると言語化されたある習慣が選択の単位として機能するという主張だと取ることができる。こうなると行動主義的な習慣もミームという形で同定、進化の単位と考えることができるだろう。"From Bacteria to Bach and Back"での言い方を借りるなら、振る舞いというミームを"manifest image"上の単位として認識論的に定義してしまうという戦略になると思う。さらに脳のモジュールも"design stance"上の単位として考えることができそうである。

さて、ミームについてはこの章の最後のセクションで批判が加えられていた。その中の1つにミームの関わる例えば出版などの活動は「意図」を持って行われるので、盲目的な進化のプロセスによっては説明されないというものがある。

It explains the appearance of conscious coordination and design without requiring a designer. But the social world-for instance, the world of publishing-is a world in which there are real intentions and real planning.

(Kim Sterelny, Paul E. Griffiths "Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology")

この点についてだが、出版がすべてが意図を伴って行われるとは限らないという批判がまずあり得ると思う。例えばある単語とその同義語のうちどちらを使うかなどはほとんど無意識に行われるだろう。そもそもデネットミームという考えによって批判したいのは文化的行為は常に意図や理解を伴ってなされるという考え方なのだろうと思う。その点は以下の引用から確認できる。

The memes perspective provides a valuable corrective to this oversight, but much more important is the way memes can provide an alternative vision of how culture-borne information gets installed in brains without being understood. The problem with the standard view is that it relies uncritically on the assumption of rationality that is built into the intentional stance: the default presumption of folk psychology is that people, and even “higher” animals, will understand whatever is put before them.

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.213). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

"Sex and Death"のここでの書き方は「意図」を進化のプロセスでは説明できないものだと考えているように見える。それこそデネットが最も否定したがる「スカイフック」ということになるだろう。意図的な行為とそうでない行為の間には明確な境界はなく、そうであるならばすべての行為にミームが関与する可能性がある。

2017/6/16

今日もまた"Sex and Death"を呼んでいた。12章はグールドの大量絶滅を例とした進化のプロセスは適応より偶然によるものだという主張が検討されていた。適応主義者が進化をすべて必然のプロセスであると考えているわけではないことは明白であり、いわゆる藁人形論法だというのがデネットの主張だったのでその辺りを思い出しながら読んだ。おそらくグールドは生態系のレベルでの適応プロセスだけで進化のすべてを推定できるという立場に反対したかったのだろうということは思った。さて、この偶然と必然(適応)の違いというのがイマイチよくわからない。偶然的なプロセスも物理的によく見れば(不確定性の話はさておき)物理法則に従った必然的なものと考えることができる。ある選択が偶然だと語るときそれは同様に確からしいものから一つが選ばれることを言う。この同様に確かである、つまり複数のものがアイデンティティを持っているというのはどういうことなのだろう。私の考えではこのアイデンティティは物自体が持っている性質というより私たちがそこに投射する属性なのだ。例えば複数の「赤い玉」から偶然選ばれたというとき、それぞれの玉が全く同じ物理的性質を持っているわけではなく、私たち認識者によって「赤」という属性を投射されて初めて同じものとして扱われる。同様にある生物Aのうち一体が偶然選択されるというときその「生物A」というものは投影された属性である。そしてそれぞれの物理的性質のレベルで見たときその自然淘汰はある環境要因に相関した必然的なものなのだ。だから進化のプロセスは偶然的とも必然的とも言えるのだろうと思う。

2017/6/14

"Sex and Death"の今日読んだ第11章では生態学と進化論の関係が「ニッチ」という観点から考察されていた。結局のところニッチというものはある生物の生存や繁栄に関わる様々な次元からなる空間上に設定されるもので、生物から独立の抽象的なニッチが存在するわけではない。しかしその生物を系統発生学的に広い範囲で設定すれば、異なる生存圏において似たようなニッチを発見することが可能となる。これは第10章で論じられていた生物進化の歴史による制約と適応主義の関係と並行関係にある。抽象的なニッチを構想する考え方は第10章で言う所の"empirical adaptationism"であり、反対にそれを否定する見方は歴史的制約を重視する立場となる(だからこそルウォンティンは後者を擁護しているのだろう)。というのも歴史的制約が個体に関して大きく変化するならそれぞれに異なったニッチが考えられる=異なった淘汰圧が働くし、反対に大きな範囲でその制約が同じように働いているならそれらに関して似たようなニッチが考えられる=同じような淘汰圧が生じるからである。

2017/6/13

今日もまたSellarsの"Science, Perception, and Reality"を数パラグラフだけ読んでいたら、感覚を脳神経の働きに還元することと感覚対象を物理的な「見えない」原子などの集合体に還元することは同じ問題だという論点があって面白かった。前者は批判されて後者はすんなり受け入れられるというのはなかなか興味深い。おそらく感覚を超越した客観的対象とその表象という区別に基づいて、前者は物理的なもの、後者はそうではない「感覚質」を伴った何ものかだと考えられているのだろう。私はその分け方にずっと疑問を持っている。例えばショーペンハウアーはカント的な図式に従って物理的対象も私たちの表象だと言うし、ハイデガーの立場は物理的対象と表象をわけない「現れ」一元論である。このように一元的に考えるなら、対象を原子の集まりに還元することが可能ということは、感覚対象を物理的なものに還元することもまた可能だということを意味するのではないかと思う。

2017/6/12

Sellarsの"Science, Perception, and Reality"をチラチラっと読んでいたら面白い一節を見つけた。

It is no accident that when a novelist wishes to represent what is going on in the mind of a person, he does so by “quoting” the person’s thoughts as he might quote what a person says. For thoughts not only are the sort of things that find overt expression in language, we conceive of them as analogous to overt discourse. Thus, thoughts in the manifest image are conceived not in terms of their “quality,” but rather as inner “goings-on” which are analogous to speech, and find their overt expression in speech—though they can go on, of course, in the absence of this overt expression.

(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality)

小説での登場人物の心理を記述するいわゆる「地の文」はその人物の台詞(話し言葉)の引用という形で記述される。というより話し言葉の形でしか人間の心理を記述できないというのが正しいだろう。このことは「経験論と心の哲学」で「ジョーンズの神話」として語られていたことの言い換えではあるが表現の方法が面白い。デネットが「解明される意識」で言う所の「物語的重力の中心としての自己」に通じるところがあると思う。自らの行動や心理を記述することを「物語」と表現したのはこのあたりを意識していたのだろうか。デネットはまた内的思考が自らに語りかける習慣から発展してきたものだと言っていたからそのあたりも符合する。

2017/6/11

今日も"Sex and Death"を読んでいて、第10章ではいわゆる"adaptationism"と呼ばれる立場の是非が検討されていた。Godfrey-Smithによると"adaptationism"には"empirical adaptationism""explanatory adaptationism""methodological adaptationism"の三種類があるらしい。"empirical adaptationism"は進化の歴史よりも現在の環境への適応が重要だという考え方、"explanatory adaptationism"は進化の歴史による制約は認めつつも自然選択だけが複雑な有機体のシステムを説明してくれるという立場、"methodological adaptationism"は生物学は適応的な「良いデザイン」を対象とすべきだという立場であるようだ。"explanatory adaptationism"はさまざまなモデルを使って生物に進化を予測したり、反対に進化の歴史を説明したりするのだが、グールドは環境に適応した個体が生き残るという主張が反証不可能である点が気に入らないらしい。これに対して筆者が持ち出してきたのがラカトシュの「リサーチプログラム」で、「環境に適応した個体が生き残る」という理論の「ハードコア」は反証されずそれが生み出す予測などが反証されるという立場である。このラカトシュの話などは学部一回生の頃に科学哲学の講義で聞いた記憶があって懐かしい気持ちになった。"empirical adaptationism"については有機体の既存の構造が環境への適応をどれくらい制約しているかという話になる。その度合いが大きいなら歴史の方が現在の適応度よりも重要であり、反対に小さいなら"empirical adaptationism"が勝利することになる。この辺りはオープンなままにされているがどちらの立場も一定の説得力があると思う。しかし進化の歴史と適応度のどちらかだけが有機体の構造を決定するということはありえないので、度合いの問題ということになる。

2017/6/10

今日も"sex and Death"を読んでいたがグールドによる"adaptationism"批判というのがメインテーマだったのであまり書きたいことはない。ところで最近Netflixに加入して「リトルウィッチアカデミア」を見ている。まだ最後まで放送されていないので確定的なことは言い難いが、とにかくキャラクター同士の関係性の相似と対称の配置が上手いと思う。例えば21話で言えば過去のシャリオとクロワの選ばれた者/選ばれなかった者の対称から託された者/託した者の対称、そしてその対称はアッコとシャリオの関係に相似していき、託された者から託した者への「ありがとう」が「言の葉」としてまた相似する。22話ではアッコとアンドリューの目標を夢見る者/目標に縛られる者という対称と目指す人に追いつきたいという二人のスタンスの相似が描かれている。こういうことを挙げ始めればきりがないと思うが、それにしても相似と対称は物語を動かしていく大きなファクターなのだろう。人と人の関係の類型というのはある程度限られるが、偶然的な要素によってそれが微妙に変化したり反転したりすることが物語に深みを与えるのかもしれない。