2017/5/16

昨日の話の続きだがセラーズの"Science, Perception, and Reality"をちらっと読むと以下のようなことが書いてある。

Let me refer to these two perspectives, respectively, as the manifest and the scientific images of man-in-the-world. And let me explain my terms. First, by calling them images I do not mean to deny to either or both of them the status of “reality.” I am, to use Husserl’s term, “bracketing” them, transforming them from ways of experiencing the world into objects of philosophical reflection and evaluation.

Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.163-166). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版.

"manifest image"や"scientific image"は実在というものに関してフッサール的に「カッコに入れて」考えているようだ。とするとセラーズはクオリアの実在についても有るとも無いとも主張していないと言える。しかし、デネットは本当にクオリアが「存在しない」とまで主張しているのだろうか。彼の言いそうなこととして、クオリアが適応度に関わらないならそれを持つ能力が進化のプロセスの中で保存される理由がない。これは"design stance"上での論理であり、クオリアを含む"intentional stance"というか"folk phychology"が独立しているという論者からは受け入れられないだろう。デネットが言うようにクオリアの存在証明が直感によるものでしかないなら、おそらく"folk phychology"上の論理では存在するともしないとも証明できないのではないかと思う。

2017/5/15

デネットの"Sweet Dreams"を読んでいたら以下のような文章に出会った。

One of the themes about qualia that is often presupposed but seldom carefully discussed was memorably made explicit for me by Wilfrid Sellars, over a fine bottle of Chambertin, in Cincinnati in 1971: I had expressed to him my continuing skepticism about the utility of the concept of qualia and he replied: “But Dan, qualia are what make life worth living!” (Dennett 1991, p. 383).

(ページ106).

セラーズ曰く、クオリアは人生を生きるに値するものにしてくれるそうだ。うーん、心理学的唯名論とかいって感覚与件の存在を否定しているのだからクオリアも否定して欲しいと思う。いや、セラーズが主張しているのは感覚与件によって命題的な知識を正当化することの否定であって、その存在自体は否定していないのかもしれない。それならばデネットはセラーズより強いことを主張していることになる。いやしかし本当に感覚与件の存在を否定していないのだろうか。全然自信がないのでそのあたりもっと詳しく読みたい。

2017/5/14

デネットは"scientific image"と"manifest image"の仲立ちをすることが哲学の仕事だと考えているようだ。その中で具体的には"physical stance"と"design stance"をつなぐのが進化論、"design stance"と"intensional stance"をつなぐのが物理主義なのではないかという気づきがあった。物理的なアルゴリズムの集積から機能を持ったデザインが発生するプロセスを説明するのが進化論だと言える。また意識についての物理主義は信念や願望など"intensional stance"上の語彙を進化の過程で得られた遺伝子やミームによるデザインとして説明する。それぞれの語彙は下位の語彙に還元可能だが、上位の説明レベルは例えば人間の行動予測に有用であるという意味で保存されうる。ただし、"scientific image"/"manifest image"の区別と"physical stance"/"design stance"/"intensional stance"の区別がどう対応するのかは明らかでない。物理的な説明の語彙を日常に使うことはあり得るし、信念などの用語を心理学的な探求に用いることもあるからだ。

2017/5/13

デネットの"Sweet Dreams"を読んでいる。第1章は哲学的ゾンビの思考実験を生み出す「ゾンビ的直感」、第2章は"Consciousness Explained"でも登場していた「ヘテロ現象学」について考察が深められていた。"Consciousness Explained"を読んだ時はこのヘテロ現象学というものに対する違和感が拭えないでいたがその原因がだいたいわかった。そもそこのヘテロ現象学はセラーズのいうような「心理学的唯名論」に基づいているのだと思う。この前提があって初めて、テキストとして現れる意識活動を分析すれば意識の研究として十分であるというヘテロ現象学の主張が導かれる。反対に感覚与件やクオリアというものの実在に立脚していると、このヘテロ現象学では何かがとりこぼされているという感覚が消えないままとなる。デネットもその辺りを言えばいいのにネーゲルチャーマーズの主張の論駁に終始するものだからわかりにくくなっている気がする。

2017/5/12

少し前から気になっていることとして"manifest image"と"scientific image"をいかに区別するのかという問題がある。確かに明らかにどちらかに属しているとしか思えない言明は存在しているが、同時にどちらとも言えなさそうなものもある。例えば重力と言った言葉はわりと日常的に使うが科学の用語という感じもするだろう。このように"manifest image"と"scientific image"の間に厳密な線引きはできないのではないかと思う。科学というものが日常的な探求活動からミームの進化によって作り出されたとするなら、デネット得意のいわゆる漸進主義がここでも活用できそうだ。意識を持つ状態と意識を持たない状態が厳密に区別できないように、またある種族とそこから分化した種族の間にはっきりした線引きが存在しないように、日常的な言語活動と科学の言語活動が明確に分かれるわけではない。しかしそうなると"manifest image"上の感覚表象を"scientific image"常に探してしまうクオリア論のカテゴリー錯誤という議論はどうなるのだろう。明確な線引きができないわけだからそれぞれにカテゴリーという概念を持ち込むのは怪しい気がする。

2017/5/11

"Content and Consciousness Revisited"というデネットに関する論文集を読んだり読まなかったりしている。Felipe De Brigardの"What Was I Thinking? Dennett’s Content and Consciousness and the Reality of Propositional Attitudes"を読んでいて、「民間心理学(Folk psychology)」というものが話題となっているがおそらく"intentional stance"と同じものだと思う。「信念」「願望」といった語彙を含むこの民間心理学の有用性というのが話題になっていて、そういえば「自由」というものもこの語彙に含まれるのではないかと思い当たった。自由が"manifest image"="intentional stance"による説明に含まれているという話は" From Bacteria to Bach and Back"にもある。

The scientists and philosophers who declare free will a fiction or illusion are right; it is part of the user-illusion of the manifest image.

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.368). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

自由が"manifest image"に含まれているということは、この概念が"intentional stance"というレベルでの人間の行動の予測に有用であることを意味している。そして"intentional stance"というモデルの対象物である自由に物理的な説明における役割を与える必要はない。物理法則という世界の見方の中に"manifest image"中に存在する自由を探すから、決定論と自由の対立のような議論が生じるのだ。

2017/5/10

長谷敏司の『BEATLESS』を人に勧めて感想を尋ねるという悪趣味なことをやっている。ラストシーンでは今まで知っていたレイシアと連続性がないことが明らかな、「カタチ」だけ同じな新しい機体に対して以前と同じ感情を持てるかということが問われている。主人公アラトの答えはYesであり、魂という連続的な実体、デカルト的重力に日常的な思考を依存する私たちにとってのそれは圧倒的に異質な答えである。しかし、今日では人間が魂を持っていると本気で考える人はいない。魂が存在しないとわかっていながら、私たちは「カタチ」ではない「何か」が存在しないということに対して拒否感を覚える。それは人間が他者の振る舞いを説明するとき文法的に不可避に要求する主語、物語的重力の中心に引き寄せられた誤りでしかないけれども、「あらゆるモデルが間違っているが、いくつかは有用である」。要するに「魂」というものを想定した説明は有用であるがゆえに現在まで使われてきたのだ。しかし魂が物理的説明を拒絶する連続的な実体であるとか、独立な因果系列を持つとかいう形而上学的説明は人間の心の科学的解明を妨げてしまう。だから魂は科学と共存する形で再定義されなければならないのだ。『BEATLESS』において人間の言う魂はAIには理解不能だと言われるが、この意味での魂なら彼らと共有することができるだろう。