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2017/5/11

"Content and Consciousness Revisited"というデネットに関する論文集を読んだり読まなかったりしている。Felipe De Brigardの"What Was I Thinking? Dennett’s Content and Consciousness and the Reality of Propositional Attitudes"を読んでいて、「民間心理学(Folk psychology)」というものが話題となっているがおそらく"intentional stance"と同じものだと思う。「信念」「願望」といった語彙を含むこの民間心理学の有用性というのが話題になっていて、そういえば「自由」というものもこの語彙に含まれるのではないかと思い当たった。自由が"manifest image"="intentional stance"による説明に含まれているという話は" From Bacteria to Bach and Back"にもある。

The scientists and philosophers who declare free will a fiction or illusion are right; it is part of the user-illusion of the manifest image.

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.368). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

自由が"manifest image"に含まれているということは、この概念が"intentional stance"というレベルでの人間の行動の予測に有用であることを意味している。そして"intentional stance"というモデルの対象物である自由に物理的な説明における役割を与える必要はない。物理法則という世界の見方の中に"manifest image"中に存在する自由を探すから、決定論と自由の対立のような議論が生じるのだ。

2017/5/10

長谷敏司の『BEATLESS』を人に勧めて感想を尋ねるという悪趣味なことをやっている。ラストシーンでは今まで知っていたレイシアと連続性がないことが明らかな、「カタチ」だけ同じな新しい機体に対して以前と同じ感情を持てるかということが問われている。主人公アラトの答えはYesであり、魂という連続的な実体、デカルト的重力に日常的な思考を依存する私たちにとってのそれは圧倒的に異質な答えである。しかし、今日では人間が魂を持っていると本気で考える人はいない。魂が存在しないとわかっていながら、私たちは「カタチ」ではない「何か」が存在しないということに対して拒否感を覚える。それは人間が他者の振る舞いを説明するとき文法的に不可避に要求する主語、物語的重力の中心に引き寄せられた誤りでしかないけれども、「あらゆるモデルが間違っているが、いくつかは有用である」。要するに「魂」というものを想定した説明は有用であるがゆえに現在まで使われてきたのだ。しかし魂が物理的説明を拒絶する連続的な実体であるとか、独立な因果系列を持つとかいう形而上学的説明は人間の心の科学的解明を妨げてしまう。だから魂は科学と共存する形で再定義されなければならないのだ。『BEATLESS』において人間の言う魂はAIには理解不能だと言われるが、この意味での魂なら彼らと共有することができるだろう。

2017/5/9

昨晩から頭が痛かったりする上に准教授が体調不良で休講になったりするので本日はお休みということにして午前中は延々寝たり、そのあとは延々アニメを見たりしていた。アニメを見てその感想をインターネットで検索するとアニメキャラクターに嫉妬しているとしか思えないようなコメントがあったりする。創作の登場人物に嫉妬するというのはどういう事態なのだろう。社会に生きている他者はニッチを奪い合う競合者であり、すでにニッチを持っている他者に攻撃的な感情を持つというのは進化的に合理的だと考えられる。持つ者に対して肯定的な感情しか持てない個体は持たないままに死んでいき子孫を残せないだろうからだ。しかしアニメキャラクターは私たちの競合者なのだろうか。それがありえないということはないかもしれない。例えば女性がみんなアニメキャラクターにのみ性的な感情を向けるようになれば私たち男性に生殖の機会は訪れないことになる。しかしそんな事態まで(無意識的にせよ)想定してインターネットに書き込みしているということはどうにも考えにくい。むしろ問題なのはキャラクターと他者たちの違いの方かもしれない。アニメキャラクターは私たちの思考の中にしか存在しない。しかし、他者たちがそれとは異なった意味で実在すると言えるだろうか。私たちは他者を見ているのではなく、自分で作り出した他者たちのモデルを見ている。キャラクターは物理的肉体を持たないが、それでも他者たちと同じようにモデルとして「実在」している。私たちはモデルを見て、モデルに嫉妬し、モデルを批判するコメントをインターネットに書き込む。そしてそんな自分たちですら、このように言葉にする、つまりモデル化することでしか知ることはできないのである。

2017/5/8

ようやく"The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"を読み終えた。最終章では機械学習、そして将来見つかる(と筆者は信じている)Master Algorithmによってどう社会が変わっていくか、そこで何をすべきかということが述べられている。いろいろ面白い部分があったのであれこれ引用しておく。

We are all cyborgs already. The real story of automation is not what it replaces but what it enables. Some professions disappear, but many more are born.

(ページ277)

「私たちはみんなすでにサイボーグである」という文がなかなかパンチが効いている。上の文は機械学習によるブレイクスルーを経てAIが私たちの仕事を奪うのではないかという懸念について書かれたものだ。機械による仕事の代替は何も今に始まったことではなく、私たちの仕事はすでに機械と人間の共同作業である。

In this, as in many other areas, the greatest benefit of machine learning may ultimately be not what the machines learn but what we learn by teaching them.

(ページ281)

他にも機械学習に倫理を教えるにしても、そもそも私たち自身が倫理についてよくわかっていないという指摘が面白かった。生徒とともに教師の方も成長していくとよく言われるがそういうことがAIに対しても起こりそうである。

The decision we face today is similar: if we start making AIs—vast, interconnected, superhuman, unfathomable AIs—will they take over? Not any more than multicellular organisms took over from genes, vast and unfathomable as we may be to them. AIs are our survival machines, in the same way that we are our genes’.

(ページ284)

AIもまた私たちの生存のための機械であるがゆえにAIが私たちに取って代わることはない、という主張だが少し怪しい。人間の生存は自己複製子の複製を目指したものだが、AIの登場によってその複製に人間は必要なくなるかもしれない。例えば遺伝子を電子化してコピーしていけば何も細胞分裂によって増やす必要もなくなる。遺伝子がその乗り物を私たち人間から機械へと乗り換えるというシナリオは十分に想定できるだろう。ただし人間の思考はその速度という利点によって遺伝子からかなりの権限を委譲されているので、私たちが自ら進んでそのシナリオに従うということはないだろう。

その点の続きとして、機械学習の評価関数を私たちが決定しているのでAIがそこから離れて活動することはない、という主張もあった。しかし適応度という評価関数を決定する遺伝子が私たちの脳にリアルタイムの判断を任せているように、私たち人間がAIに判断の大部分を任せるということはあり得る。なぜなら私たちの脳よりもAIの方が明らかに処理が早いからである。筆者の主張は少し素朴な遺伝子決定論に影響されているような気がする。実際に私たちは遺伝子の利害から離れた判断をたくさん行っているし、AIが私たちの利害を最終的には目指すものだとしても独自の中間判断を行うようになるというのは十分にあり得る未来だろう。

2017/5/6

"The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"の第9章を読んだ。これまで登場した機械学習の手法が最適化手法、評価、表現(?)という三つの観点から整理されてそれらの統一が試みられている。問題となるのは記号主義的な論理式とベイジアンな確率推論の統合ということになるらしい。論理というのはyes/noの二分法であり(0/1以外の真理値を与える多値論理というのもあることはあるが)確率と言う概念をあまりうまく表現できない。反対に確率推論は論理的な推論ほど確実なものとはなりえない。また確率推論は実際の生存競争で用いるにはあまりに計算が大変だという指摘があり面白かった。

But it can be very computationally expensive. If your brain used probabilistic theorem proving, the proverbial tiger would eat you before you figured out to run away.

(ページ256).

この二つをなんとか統合する試みとして筆者はマルコフ論理ネットワークというものを提案している。これも数式を使わない説明なのでふんわりとしか理解していないが、論理的なルールを重み付けすることで確率推論と統一しているらしい。

ショーペンハウアーなどの今まで読んできた哲学書は認識論について記号主義的な見解を採用していたので、確率を用いて私たちが思考している(かもしれない)というのは新鮮な考え方だった。確率を用いた学習はおそらく言語化はされないものであり、数理的なモデルを用いて初めて理解できるようになる。哲学は思考の言語化できる部分をのみを扱っていればいいのかと言われるとそうではない気がするが、言語化できないものをどう扱うのかというのは問題である。

2017/5/5

昨日と今日で"The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"の第7章と8章を読んでいる。7章ではアナロジーによる学習(サポートベクターマシンとか)、8章では強化学習について解説されていた。この辺りまで読んだところで学習についての大きな絵がふんわりと浮かんできた。アナロジーによって大雑把なクラスタリングを行った後、新しく出会う対象についてはベイズ推定によってそのクラスタに分類していく。形成されたそれぞれのクラスと言語化すれば記号主義的な決定木が出来上がる。そしてそのプロセスを物理的にみればコネクショニズム的な神経回路の形成が行われているのである。ただしこのプロセスは一方向に行われる必要はない。ミーム感染によって新しい記号概念を獲得すればそれを用いて新たにデータをクラス分けしていくことができる。このミームの伝播を遺伝的プログラミングと見てもいいだろう。そしてこの学習は行為へとつながらなければ適応的な意味を持てない。その意味で行為まで含めた学習プロセスを考えるとそれは強化学習となる。第9章では今まで登場した学習方法が統合されるようなのでこの絵とどう違うのか検討してみたい。

2017/5/3

"The Master Algorithm: How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake Our World"の第6章を読んだ。ベイズ推定を用いたあれこれが紹介されている。ベイズ推定はデネットが言及していたがよくわからなかったので読みたい部分であった。ベイズの定理については数式上の証明もあったりしたのでそこそこ理解できたと思う。ヒュームを持ち出されるとベイジアンたちはベイズ推定は主観的な信念の確度を変化させるだけだと主張するらしい。

Bayesians’ answer is that a probability is not a frequency but a subjective degree of belief. Therefore it’s up to you what you make it, and all that Bayesian inference lets you do is update your prior beliefs with new evidence to obtain your posterior beliefs (also known as “turning the Bayesian crank”).

(ページ149).

カント的な立場を取れば主観的な信念の確度と客観的な頻度の区別は必要ないと思う。しかし数学的な定理を用いたシステムが主観的な信念に関わるというのがなんだか可笑しい。数学の客観性はどこに行ったのか。

他にも面白い文章があった。

As the statistician George Box famously put it: “All models are wrong, but some are useful.”

(ページ151)

「すべてのモデルは間違っているが、いくつかは有用である。」例えばデネットの"intentional stance"はモデルであり間違っているが、それでも人間の行動を予想する上で有用だと言える。西村(2012)*1で言われるような「解釈主義+プラグマティズム」的な見方がよく表された一文だと思う。