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2017/4/13

"From Bacteria to Bach and Back"の今日読んだ部分ではミームと意識の関係が論じられていた。「裸の脳」では意識的な思考ができず、OSに相当するミームに感染して初めて可能となる。

You can’t do much thinking with your bare brain, but armed with these simple tools, an explosion of thoughtful exploration becomes available.(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.300). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

アフォーダンス環境に自身の思考が含まれるようになると、思考をメタ的に「デジタル化」したメタミームが現れる。それこそが自己の思考をモニターする際のユーザーインタフェースとしての意識なのだ。世界と自己の間に現れる"manifest image"に対して、これは自己の脳内モジュール間の"manifest image"だと言えるかもしれない。このアイデア自体は"Consciousness Explained"にあったが「アフォーダンス」"manifest image"「デジタル化」などとの連関でより統一的に提示されているように思う。

2017/4/12

"From Bacteria to Bach and Back"の今日か昨日に読んだ部分では"intentional stance"を見出すことが「心の理論(theory of mind)」を持つことだと語られていて理解が深まった。ただしデネットは心の理論という用語はあまり良くないと考えているようである。

This competence is often called TOM (an acronym for theory of mind), which is an ill-chosen term because it invites us to imagine those having this competence as comprehending theoreticians, astute evidence gatherers and hypothesis considerers, instead of flying-by-the-seat-of-their-pants agent anticipators, blessed with an interpretive talent they don’t have to understand at all.(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.259). )

他者の"intentional stance"はどこまでも自分が見いだすものである。それは他者が自分自身に見いだす"intentional stance"必ずしも同じものではない。このような"intentional stance"のズレを認識していない人はかなりいるのではないかと思う。そもそも"intentional stance"が見出されるものだという発想がなければ、自分が見出した"intentional stance"が他者のシステムを完全に記述するものだと思い込んでしまうことになる。簡単に言えば他者の内面は不可知だということだが、こういったギャップを知ることが本当の意味で他者を尊重することにつながるのではないかと思っている。

2017/4/11

ミームがデジタル化という認識のプロセスを経て存在するのなら、それは"competence without comprehension"による文化の進化を成り立たせることにはならないのではないか。しかしパターン認識は対象を理解することを必要とはしない。つまり先の文での認識が理解と同義ではないということだ。と言うより"gradualism"的なスペクトラムの中で考えるなら、機械的パターン認識と人間的な理解の間に厳密な線を引くことはできない。ハイデガーの「解釈」とパターン認識によるデジタル化を同列に扱う時、このパターン認識と理解の関係はややこしくなるかもしれない。ハイデガーのいう「理解」は解釈の一つの契機「あらかじめ持つこと」として考えられるからである。ただ、理解=投企=気づかいの構造が世界内存在や開示性とつながることは、"From Bacteria to Bach and Back"での"manifest image"と存在論アフォーダンスそしてデジタル化というそれぞれの思考を統一する上で役立つ気がする。

2017/4/9

"From Bacteria to Bach and Back"の今日読んだ部分ではミーム論への様々な批判を確認した上でそれへの返答が述べられたいた。その中でミーム論はラマルク主義なのではないかという批判があった。遺伝子のエピジェネティクス的な意味ではその批判は的外れなのだが、ミームの複製にはある意味でラマルク主義的なところがある。あるミームが初めて人の方に侵入するのは遺伝子と同じように複製だが、同じミームをもう一度受け取るのはそれと同じ複製とは言えない。そのようにして二回目以降に受け取られるミームは既に脳内に存在するミームと同種のものでありながら、別のアフォーダンス的文脈で受け取られることでそのあり方を変えてしまう。これはある意味でラマルク主義的な獲得形質だと言えるだろう。ただしそれがダーウィニズムに反する振る舞いというわけではない。

My informational structure for the word may be adjusted by encountering these later tokens of the word, and these could lead to changes in features that could then be inherited by any further offspring of my version. This would be Lamarckism of a sort at the meme level, one of many possible variants of natural selection in Darwinian populations.(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.246). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

この観点はなかなか面白いと思う。ミームは単に脳と脳の間を複製されるでなく、様々な文脈を摂取して変質し続けているのだ。ちなみに一回目に受け取られたものと二回目のものが異なるミームではなく同じミームだと言えるのは、それがパターン認識によってデジタル化された同一のトークンだからである。

2017/4/8

今日はひたすら研究計画書を書いていた。2000字程度と書かれていたので2000字書こうとしたらかなり大変で、結局1日かかってしまった。研究の目的というものを考えるけど、哲学の目的というものが論文一本で達成されるものなのだろうか。これは単に自分が大きな目的を小さな目的に切り分ける能力に欠けているだけという気もする。

"From Bacteria to Bach and Back"の今日読んだ部分では存在論の話が出ていた。ミームは存在するのか?問いに答える形で、デネットは"reality"というものを考察する。デネットにとっての実在物は"manifest image"に含まれるものであるようだ。ミームはデジタル化されたものとして、"manifest image"のうちに実在している。物理的には存在しないが実在するものとして他に意識、自由、貨幣などが挙がっている。このように認識上に現れるものに実在性を与える考え方はハイデガーのものと似ている。ハイデガーは存在することを「開示」されることとほぼ同義と捉えているようだからである。

2017/4/7

世界は本来はアナログなものであり、言葉はそれをデジタルに切り取ってしまうらしい。言葉の対象は物体そのものとは限らず、言葉自身もその対象に含まれる。そうすると、アナログ的な差異を切り捨ててできた言葉をさらにデジタル化することになる。デジタル化をある意味での曖昧化と捉えるなら、言語というのは無限の曖昧さを畳み込んだ構造なのだ。だから、言語によって何かを表現することは原理上批判を免れ得ない。アナログなままの世界を表現する言語はありえないから、問題はどのレベルまでの曖昧さを許容するかということになる。

2017/4/6

我らが京大哲学研究室には今の教授が職について以来准教授がいなかったのだが、今年から准教授が就任されるらしい。奇しくも進化論の哲学や統計の哲学をやっている方らしく、私がやろうと思っていた分野と被っている。楽しみなような、恐ろしいような。

あまり論文をバカスカ読むという勉強の仕方をしてこなかったのが良くない気がしている。1つの思想を理解するのに時間をかけるあまり、様々な人の立場を知っておくということができていないのではないか。1日何本とか決めて読んでいこうかな。しかし、自分の場合は論文に当たっていく以前の基礎知識が足りてない気がする。そんなことを言っていたら一生基礎知識が足りないと言い続けることになりそうだが。何にせよ、心の哲学など今現在活発に論争されているジャンルをやるなら時流に追いつく必要があるだろう。うーん、明日から、いや明後日からやるぞ。やります。