2017/3/12

存在と時間』第二編第二章の読書ノートが完成した。一週間に一章読めればいいなと思って今週末までに完成させようと思ったら、想定より手間取って出来上がったのが日曜日の23:59だったのでギリギリである。自分で設定した締め切りに追われるのは自律的というのだろうか。1年くらい前から断続的に書いている『存在と時間』の読書ノートは記事としてこれで10本、一本一万字以上は書いているので単純計算で10万字以上の分量になった。今確認したら卒論が一万二千字ほどだったのでおよそ卒論の10倍ということになる。もはや自分で読み返したくもないし、インターネット広しといえども初めから読み切る人間が存在するとは思えない。もうタイピングしたくないので今日はこれくらいにしよう。

2017/3/11

最近読んでいる『存在と時間』の第二篇第二章がつまらない。単純に「良心」という考察の対象に興味がないというのと、体系性を確保するために仕方なくやっている感じが辛い。唯一興味があるのは、「良心の呼び声」と責任、自由などの概念が関係してくる点だ。デネットは"Elbow Room"で理性に従うことを「自由」の要件としてあげていたから、この良心と理性の関連を追ってみるのも面白いかもしれない。こう書きながら考えていると、「良心」の存在論的な基礎の分析はメタ倫理学的であり、本来なら私の興味の対象となりそうである。単純にハイデガーの記述が抽象的すぎて倫理の問題を扱っているということに気づきにくいだけなのかもしれない。

哲学をやっていると「体系性」、すなわち個別の部分が思想の全体と調和していることを気にしがちである。そしてその体系性の確保のために多大な紙面を割くということも多くある。これは専門家の間で哲学をやる上では重要なのだが、その意義が専門外の人間に理解されるだろうかという点が疑問だ。自分が哲学で食べていくということが可能であるとはあまり思っていないが、本当にそれを目指すなら気をつけなければならないポイントだろう。専門家相手に商売をするよりも、いかに専門外の人間に金を出させるかを考えた方が収益が高いだろうからである。

2017/3/10

上田早夕里の『夢みる葦笛』を読んだ。『楽園(パラディスス)』という短編に、基本的に行動を追認するだけの意識は世界の先行きを予測するために存在しているという話があった。一つの見方としてかなり有用であると感じる。ところでデネットの「ただそれだけの物語」(デネットは自身の思弁を好んでこう呼ぶ)によれば、意識は自身に語りかけることとして生み出されたらしい。だからこそ意識は言語という形をとらざるをえない。このような言語的な意識は、本来理解されえない自分の脳の振る舞いを(部分的にだが)他者に伝達することが可能となる。生物は本来、他者に理解されることを好まない。なぜなら、自分の行動を予想されてしまうとそれを先読みした他の個体によって出し抜かれて、生存の機会を損なってしまうからだ。それゆえに生物の脳は他者に理解されないようある程度のランダム性を持って駆動するようになっている。それでも幾つかの種は、自分を理解してもらおうと声を発する。それは高度な社会を形成してさらに生き残る機会を増やすためだが、周知の通りその機能は比較的新しく完全ではない。原理的に伝わりえないと理解していながらも声を上げ続ける、生物のそんな孤独を美しいと思う。

この短編には他に、電子的に増設された脳同士を接続すればその境界面上に第二の意識が生じるのではないかという話もあった。これは意識を脳のモジュール間のインターフェースと見るでネットの解釈と軌を一にするものだろう。

2017/3/9

あらゆるものに価値はない。なぜなら価値とは自身が世界に付与するものだからだ。さて、自分で見出した「価値」に価値はあるのだろうか?これは無限退行の始まりである。それを止めるために、人は超越的なものによって世界に絶対的な価値を与えようとしてきた。それは神であり、国家であり、イデアであった。超越的なものなんて存在しないと知った私たちは、もはや絶対的な価値を持ちえない。それが当然だと思いつつも、どうしてか不満がある。これはなぜなのだろうか。おそらく私たちの脳は進化の過程上で「絶対価値への欲求」を備えたのだろうと思う。自分で考えた価値に従って行動するより、誰かが決めた価値に従ったほうが社会的な協調は容易となる。その場合、絶対価値に従うことが適応的なのである。すなわち、絶対価値を求めそれを疑わない個体がより多く子孫を残すのだ。それならば絶対価値欲求を抑えることは性欲を抑えることと本質的に変わらない。そう考えると上記の「不満」を付き合って生きていくこともできる気がしてくる。性欲を発散するのと同様に、時々神の存在証明をしてみたりして絶対価値欲求を発散させてやればいいのだ。

2017/3/8

神林長平の『言壺』を読み終えた。『跳文』という短編では言葉を通じてユーザーに疑似体験を起こすデバイスが登場する。言葉によって五感的な情景が浮かび上がるということが書かれていたが、少し疑問がある。私が小説を読むとき、あまり具体的なイメージを想起して読むということがない。他の人の話を聞くと、景色を見たりキャラクターに声をつけて呼んでいるそうだ。デネットが言うように、思考の上を走る言語が脳のモジュール間のユーザーインターフェースなら、私の読み方は表象を介さずにそのインターフェースを直接表示するようなものだろう。反対に、文字情報から情景を思い浮かべるというのは、例えるならコンピュータのグラフィカルユーザーインタフェースを見てその背後でどのような機械語によって回路が動いているかを想像するようなことになりはしないか。このようなプロセスによって文章を読むのは「遅い」気がしてならない。それは単に私が視覚像や音声にあまり価値を置いていないというだけかもしれないけど。視覚像にリアリティの比重を置く人からすれば、視覚化されないただの文字の羅列にこそ意味がないのかもしれない。つまり、私のリアリティは文字にあるということになる。こう書くとやはり自分の方が異常な気がしてくる。これは経験則なのだが、他人の振る舞いに違和感を感じてそれを詳しく考えていくと異常なのは実は自分だったというオチが付きがちである。いつも世界は正しく、私はそこに参加できない。

2017/3/7

積んでいる数多の本の一冊、神林長平の『言壺』を読んでいる。『被援文』という短編はネットに接続された文章作成支援機械「ワーカム」を通じて他人の妄想が自分の中に入り込んでくるという話である。この短編小説自体がワーカムによって書かれた文章である以上、ネットを通じてミームが直接的に文章に介入してくる。そして私たちの意識的思考が言語的なものである以上そのことは単なる小説上のフィクションではない。あるいは、私たちの意識自体がフィクションであると言った方が正確かもしれない。さて、このような事情は何もこの短編に限った虚構ではない。この短編ではワーカムという仮想の道具によってそれが加速させられているだけで、ミームの侵食は私たちの今日の活動でも日常的な出来事なのだ。

インターネットで「ミーム」という単語を目にするとき、十中八九ドーキンスが鋳造した本来の用法とは離れて使われている。これを正すべきかということは『利己的な遺伝子』を初めて読んだ3年前からずっと続いている悩みである。「インターネットミーム」などと言われるとき意図されているのは広がっていく力の強い情報という程度だろうが、普遍的だろうがマイナーなものだろうが複製される情報は全て「ミーム」という概念に包括される。ただし、「インターネットミーム」という語が指す対象も本来の意味での「ミーム」の一部分はあるので必ずしも間違っているわけではない。このあたりも正すべきか否かという悩みを深める原因である。

2017/3/6

朝起きた瞬間にひどい偏頭痛がしたのでそのまま倒れていたら一時間ほどが無為に過ぎ去った。頭が痛いと身体を動かす気にならないのは奇妙なことのように思える。なぜかというと頭が痛いことによって身体の動作が制限されているわけではない。足が痛いのはそれ以上足を動かすなというシグナルだが、頭が痛いことがそれ以外の体を動かすなというシグナルだということがあり得るだろうか。それなのに頭が痛いだけでこんなにも活動する気が無くなるのは、おそらく進化の過程上で頭が痛い時にイキイキと活動していた個体は何らかのひどい目にあって淘汰されてしまったからだろうと思う。というわけでこのやる気のなさは自然環境に適応するためのもので、この時間は無為ではないと自分を納得させている。

その他には人間の意識の非連続性をハイデガーはどう考えるだろうかということを考えた。寝たり気絶したりしているとき、現存在は何物にも投企していない。それと現存在の死とは何が違うのだろう。ハイデガーは死を「もっとも固有で、関連を欠いた、確実な、しかもそのようなものとして規定されていない、追いこすことのできない可能性」と定義している。このような死の定義と睡眠とはどのような差異があるだろうか。今日は眠いのでもう考えないが、明日以降の自分に期待しよう。