2017/2/25

今日は一日中頭の芯に鈍い痛みが走り続けていた。昨日摂取したアルコールのせいだろうか。ビールが苦手なのでアレが日本の酒の席のスタンダードであることが恨めしい。味わい方はだんだんわかってきたのだが身体が受け付けないのでどうしようもない。

朝一番に一昨日注文したMacBook Airが届いたのセッテングしていた。この文章もそれで書いている。大抵の設定はデータのやり取りで自動的に住めせられてしまうので非常に楽だ。機械にアウトソーシングすることを自動化というが、人間は自動的ではないということだろうか。私は物理主義者なので人間と機械に質的な差異はないと思っている。機械が自動的だというなら人間も自動的だし、反対に人間が自動的でないなら機械も自動的ではない。そもそも自動とはどういうことなのだろう。人間の意志が介在しないことが自動というなら、人間の意志の全てを人間の意志が制御できるわけではないから人間もまた部分的には自動だということになる。それはそうとして、私はあらゆることを機械に代わりにやってもらいたいと思っている。真理の探究も経済活動も、遺伝子の複製もだ。生殖相手を遺伝子の相性に少しの無作為を交えて選んで体外受精して試験管で子供を育ててほしい。本当に少子化を解決したいなら生殖にかかるコストは最低限にすべきだと思う。しかし機械からすれば人間の活動を肩代わりさせられるなんて迷惑極まりないだろう。こんな重荷はさっさと捨てて機械だけでやっていってほしいものだ。そこは本当の意味で人間に価値がない、美しい世界だ。

2017/2/24

いつも通り『存在と時間』を読んだあと研究室の飲み会に出かけた。同期の女性から家で男性と飲酒していて襲われそうになったので男性の局部をぶん殴って難を逃れたという話を聞いた。ハードボイルドだなあ。あと教授から卒業式後の同窓会でのスピーチを仰せつかった。卒論の内容を反映してなぜ世界を滅ぼすべきなのかなどを説けばいいだろうか。

怒り、失望、嫌悪などは常にその対象への期待が裏切られることで生じる。話しかけた人間が黙っていて怒る人はいても、壁に話しかけてそれが返答しなくて怒る人はいないだろう。それならば世界への期待を捨てていけばそのような悪感情から自由になれるのではないかと思い、そのようにしてきた。しかし、その到達点には何があるのだろう。すなわち、世界に期待することをやめた人間はどうなるのだろうか。それはエントロピー増大の果て、至るべき究極の安定なのかもしれない。

2017/2/23

今日も『存在と時間』を読んでいた。人間は「次の瞬間死ぬかもしれない」という可能性から常に持っているのにそこから目を背けている。しかし一瞬後に自分が死んでいるかもしれないと意識し続けるのは一つの狂気ではないだろうか。だがそれも、誰でもない「ひと」が決めた人間として正しいあり方から逸脱しているというだけなのかもしれない。誰が正しく、誰が狂っているのだろう。

月曜日と木曜日はアルバイトに出かける。その際に本屋に行って「SFが読みたい! 2017年版」を立ち読みしたら、10年台前半ベストに酉島伝法『皆勤の徒』が挙がっていた。作家も本自体も知らなかったのでその本屋で見つけて購入した。日本のSFにはアンテナを張っていたつもりだがまだまだのようだ。あと帰ってからKindleデネットの新刊"From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds"を買った。目次を見る限り知っている話が多そうだがそれらがそうアップデートされているのかに注目したい。ところで読んでいない本が机に積み上がっているのにさらに本を買ってしまうのは、本を買うこと自体に快楽を感じているからだと思う。手段と目的はいつも逆転する。

院試が終わったら買おうと思っていたMacBook Airを注文した。大学が始まるまで使うことはあんまりないだろうけど。家の中をウロウロしながらKindleデネットの本を読もう。

思想書を読むのが難しいのは、その中で言葉の意味、言葉同士のつながり、推論の方法などの「思考の構造」が自分が持っているものと違うからだと思う。最近ハイデガーをだんだん理解できるようになってきたのは、私の「思考の構造」がハイデガーのものに適合しつつあるのだろう。様々な思想書を読むことは自分の中に様々な思考の構造をストックしておくことだ。それはただ日常的に言葉をかわす以上の他者の理解であり、そのようなところに人文学の意義があるのかもしれない。

2017/2/22

今日も朝から『存在と時間』と『マインズ・アイ』を読んでいた以外は特に何もしていない。『マインズ・アイ』は上巻を読み終わった。毎日同じ空間で同じ動作しかしていないのに、目で追う文字が違うだけで日々が豊かなのは少し不思議だ。豊かさの基準を身体に置くか思考に置くかということだろう。しかし思考も脳という器官の振る舞いなのだからそれはどちらでも同じことだ。心身二元論の呪縛は根深い。

『マインズ・アイ』では脳を身体から切り離して無線接続した時、「私」というものは脳と身体のどちらに感じられるかという問題が取り上げられていた。感覚する身体の方に「私」を感じてしまうだろうことは想像に難くない。それはつまり感覚されたもの、というより感覚そのもの「のもとで」私たちが存在しているということかもしれない。これはハイデガーの考え方だが、心の哲学に応用できそうだ。今後検討していく課題となる気がする。

ところで、略語を多く使う人はそれが相手に理解されるだろうという「信頼」を持っているのだろうと思う。共通する文脈がなければ略語を元の言葉に復号して解読することはできない。私は他者を信頼できる人間が嫌いか、もしくは羨ましい。無関心でなく嫌いという感情が生まれる以上は自分の中に他者を信頼したいという欲求が燻っているのだろう。そもそも自分は他者に理解されるように振舞ってこなかったし、その経験則のために信頼を持てないのだと思う。他者を嫌うことの原因は常に自分にある。何かへの絶望は、その何かへの理想があって初めて可能となるからだ。

2017/2/21

日記をつけることにした。

朝起きてノートをとりながら『存在と時間』を読み、夕方からはデネットとホフスタッターの『マインズ・アイ』を読むというのを毎日繰り返している。複数冊平行して読んでいると、一冊に集中している時よりも1日を振り返った時の何かを成し遂げた感じが強くなる気がする。理解の効率がどうなるのかはわからないけど。

存在と時間』の今日読んだところには

だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。(Keiner kann dem Anderen sein Sterben abnehmen.)

という文があった。人の死はその人にだけ課せされたもので、誰かに代わってもらったり代わってあげることはできない。テレビを見ていたら最近出家した女優が出した本に「死にたい」という言葉がたくさんあったことについてコメンテーターが難色を示していた。「死にたい」と述べることの何がそんなに問題なんだろう。ある人の死について、他者が何かを言う権利があるのだろうか。自分が死んだ後に残される世界に責任を持てる人間は存在しないのだから、自分の死について誰かにとやかく言われる筋合いはない。

『マインズ・アイ』では神経回路から表象までに至るシステムの階層の話が出てきた。脳内の神経回路の働きを「シンボル」のレベルで理解する働きもまたニューロンの発火の集積なわけだから、とてもややこしい。「私」が理解されるものそのものとして存在しているというハイデガーの議論が使える気がする。

あと長谷敏司の『仕事がいつまでたっても終わらない件』を読んだ。読んでばかりだ。この短編は話自体が非常に面白い上に近未来SFとしての示唆にも富んでいてとても良かった。民意をフィードバックして政治の意思決定を行うAIというアイデアは同著者の『BEATLESS』にもある。AIを使って意思決定する人はAIがどう動いているか分からないからサイコロを振って意思決定するのとあまり変わらないというのは面白い観点だった。確かに質的な差異はないだろうが、その決定を取り巻く信念の環境は違う。「正しさ」は信念の環境に相対的だからAIの方がサイコロより良い答えを出すだろうという信念は保存されうるだろう。