2017/11/18

デネットの"The Interpretation of Texts, People and Other Artifacts"という論文を読んだり、『心の哲学 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』という本を斜め読みしたりしていた。デネットの論文では「解釈」という方法が文章、人間の行動、デザインに適用可能であることが述べられている。これはデネットの「志向姿勢」という思想やダーウィニズム解釈が一つの方法論で結びつけられていることを示している。特に力点が置かれているのがダーウィニズムにおける「適応主義」が解釈という方法論の表れであるという点だった。生物の器官を自然淘汰の中で適応した結果得られたものと「解釈」することによって、つまり「適応主義」を採用することでその器官の成り立ちを解明する道が開けるという。

We take on optimality assumptions not because we naively think that evolution has made this the best of all possible worlds, but because we must be interpreters if we are to make any progress at all, and interpretation requires the invocation of optimality.
(Daniel C. Dennett "The Interpretation of Texts, People and Other Artifacts" 1990)

奇しくも『心の哲学』の方に「解釈主義」という項目があり主にデイヴィドソンデネットが取り上げられている。そこでは解釈は対象の合理性を前提とせざるを得ないということが解説されている。なぜなら合理的でないと考えるとどのような解釈も可能になってしまうからだ。こういった場合、デネットなら志向姿勢から設計姿勢へ、さらに物理姿勢へと解釈のレベルを下げていく戦略を取るだろう。さて、このように解釈が合理性を前提するなら、それがダーウィニズムにおける適応主義と結びつくのは自然に思える。そしてそこには、進化の歴史全体を知らなければ個々の器官の適応的意義はわからないが、個々の器官の目的を知らないと進化史を構成できない「解釈学的循環」も生じうるように思われる。

2017/11/3

諸事情でゲオルグジンメルの『社会学の根本問題』を読んだ。色々と面白い点があって良い本だったが、とりあえず印象に残った第4章「十八世紀及び十九世紀の人生観における個人と社会(哲学的社会学の例)」について書こうと思う。焦点となるのが「個人」というものが十八世紀と十九世紀でどう捉えられていたかという点である。十八世紀においては自然法則によって世界を記述するということが時代の潮流であり、そこで人間は普遍的法則によって記述される「人間」そのものと捉えられる。それゆえに様々な条件を除去した後には普遍的で無個性な「個人」が残ることになる。そのような個人はカントの言う現象界の束縛を離れているために自由であり、また普遍的であるがゆえに平等である。ここで社会思想としては一見相反する自由と平等が両立するということになる。カントはこうした人間観を持っていたがために、悟性や理性を人間一般に共通の機能として捉えていたのだろうという発見があった。もしそうでなければ、人によって違うカテゴリーを持つとか、違う推論形式を持つとかいう事態が十分あり得ることになってしまう。そしてこの後の十九世紀においてはこの個人が無個性なものではなく他者と差異を持つものとしてあって欲しいと意志されるようになる。ジンメルはいくつかの箇所で人間は差異をもっともよく認識すると述べられていて、その辺りがここに響いているのだろう。この十九世紀的個人主義は社会的分業という思想と結びつく。そして十八世紀的個人主義は始点として平等な個人間の自由競争という思想と結びついている。こうして自由主義社会の競争と分業というシステムが形成されてきたのである。

個人的な見解としては個人は全く平等な「人間」のイデアと呼べるものではない。なぜなら同じ種であってもそれぞれの個体には生物学的な差異が存在していて、本質としての人間を共有しているわけではないからである。しかし種というものが唯名論的なものであるというダーウィニズムの登場は十九世紀を待たねばならなかった。それゆえに「人間」という本質のみにたどり着けるという十八世紀的個人主義が受け容れられてきたのだろう。

2017/10/17

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の四つ目の論文"The Language of Theories"がわからなすぎて三日くらい悶々としていた。概ねわかってきた気がするうちに書いておこう。まずこの論文は理論言語の言明とその対象の実在性をテーマとしている。まずは「意味する(mean)」がどういった意味を持つのかについての詳しい分析から始まる。大雑把にいって、理論言語の名辞はある観察言語上の名辞(ここに存在量化子がつく)の単なる翻訳ではなく、それを名指したり(name)その概念を含意したり(sense)それがその名辞に内包されていることを示したり(connote)している。そうすることである対象の観察からその理論言語上の名辞の存在を主張することができるようになる。観察される対象に存在量化子が付き、またそのことによって理論的な観察されない対象も存在することになるなら、本当に存在するのはどちらなのかという問題が生じる。その問題の解決のために、まず観察言語の帰納的一般化と理論の間の関係が分析される。理論が帰納的一般化自体を説明するものなら、ある観察された事実から一般化を引きだす(derive)することとその一般化を説明(explain)することが同一になる。本当はそうではなくて、理論は一般化を引きだすものではなく説明するものなのだ。これはなぜかというと、理論は帰納的一般化では予想できないようなことも予想するからだ。理論が説明するのは、個々の事実がなぜ一般化に適合してるのかということである。こうしてみると、経験的な世界をより下のレベルから詳細に説明する理論という図式を放棄することができる。なぜなら帰納的一般化は理論とは独立に引き出されるものであり、つまりmenifest imageとscientific imageは独立の世界観だからだ。だからと言って実在が二つある、つまり二元論に至るわけではない。観察言語と理論言語は対応原理(correspondance rule)によって連絡しているからである。この対応原理は概ね「名指す」といった表現で分析されていた事柄を指していると思う。この対応原理によって単に観察言語を理論言語の翻訳するのではなく、それぞれをそれぞれの枠内で再定義(redifinition)して、観察言語が果たしていた役割を(あくまで構文論的に)理論言語が果たすことができるようになる。こうすることで理論的対象の実在性を観察に頼ることなく主張することができるようになる。また、観察言語における一般化は理論よりも予測の力が弱いため、観察言語は理論という新しい枠組みに取って代わられる。こう考えると言及される対象は理論言語のもののみとなるので、実在は理論的対象一つということになるのだろう。

おそらくセラーズは理論の方が予測の厳密さという意味で優れていると考えているのだと思う。デネットはこの点に関して、観察言語(manifest image)は簡素であるがゆえに判断に時間制限のある生物にとって有用なのだと主張するだろう。ここはデネットがセラーズを批判的に継承した点だと言えると思う。

2017/10/13

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の三つ目の論文"Phenomenalism"の最後の章"VIII. Beyond Sense Impressions"について。ここまでの論述で現象学というものがボコボコにされ終わり、その帰結を何点か確認するセクションになっている。現象/感覚対象として現れるようなものの実在まで主張できないことにより、それら物理的対象すなわち単一の論理的主語は、理論上想定される複数の主語の集合体ということになる。そうするとその単一の主語に述語づけられていた「色」などの性質は、複数の主語の集合体に述語づけられていることになる。こうなると何が「色」という性質を持っているのかという問いに答えることが難しい。ここでまた同様に感覚の主体であり単一の主語と考えられていた「人」も複数の主語の集合体として考えられることになる。例えばカントは「超越論的統覚」として単一の主語である「人」を定義していて、これは人が複数の主語の集合体であることと矛盾しないシステムである。しかし、そこで感覚印象というものの所在は本格的に不明となる。そこで例えば非物質的な実体としての「人」を想定したり、個々の感覚を(非現象学的に)新しいカテゴリーの主語として考えるという代案が出てくる。

We must therefore either introduce another logical subject (an immaterial substance) to do this work, or turn each sensing into a logical subject in its own right, i.e. introduce a new category of entity (“phantasms” or “sensa” we might call them) with predicates the logical space of which is modelled on that of visual impressions, as the latter was modelled on that of coloured and shaped physical objects.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.2132-2135). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

そしてこの"sensa"が「色」などの性質を担う新しい主語ということになる。次に問題となるのがそれらはどこにあるのかということである。

It is, indeed, true, from the standpoint of this sophisticated framework that when a person sees that a physical object is red and triangular on the facing side, part of what is “really” going on is that a red and triangular sensum exists where certain micro-theoretically construed cortical processes are going on; but it would be a mixing of frameworks to say, with some philosophers, that people “mistake sensa for physical objects,” or “take sensa to be out there.” For these latter ways of putting it suggest that sensa belong to the conceptual framework in terms of which people experience the world.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.2167-2171). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

それは当然脳の中ということになるだろう。しかしsensaは感覚対象とならないことから、すでに科学的イメージにおける対象となっている。それゆえ「sensaと物理的対象を取り違える」「sensaが外側にある」といった言明は、二つのイメージを混同していることになる。要するに、クオリア現象学的な感覚という概念を現象学の枠内で定義できないことから、物理主義的な枠組みの中で定義しようとして生まれる概念ということになるだろう。現象の性質の実在性を捨てられないから、どの脳神経が感覚質を実現するのかと問うことになるのである。

2017/10/11

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の三つ目の論文"Phenomenalism"、"IV. The New Phenomenalism"について。新現象学と呼ばれるアプローチでは古典的現象学(第一のアプローチ)での問題である現象の法則性についての説明を、演繹的に想定される観察不可能な対象に求める。「仮説演繹的実在論」と呼ばれる立場同様、ここでは観察されない対象も仮説が想定するなら(第一義的にではないにせよ)存在するとされる。それを認めた上で、例えば赤い三角形aを見た後にもう一度目を開くと赤い三角形a'が見えるという法則を、そこに観察されない対象が(現象として)存在し続けることから説明する。これはほとんど「可能的感覚内容」と呼ばれた考え方と同じであるように思われる。さて、セラーズ曰く観察不可能なものを想定する理論は観察可能なものを補足説明するものではなく、観察可能なものによる帰納的な一般化と一つ一つの法則それぞれが対応するものであるらしい。そう考えると新現象学による説明は、観察内容の理論と物理的な(観察不可能なものについての)理論をそれぞれ独立に作り上げた後で、それらを対応させなければならないことになる。しかし「可能的感覚内容」の章で見たように観察内容の理論を物理的な語彙を用いずに作ることはできない。

To claim that the relationship between the framework of sense contents and that of physical objects can be construed on the above model is to commit oneself to the idea that there are inductively confirmable generalizations about sense contents which are “in principle” capable of being formulated without the use of the language of physical things. If the argument of the preceding section was successful, this idea is a mistake.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1849-1852). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

この観察可能なもののフレームワークと観察不可能なもののそれを対応させる「対応原理」は、「明示的イメージ」「科学的イメージ」がそれぞれ独立であるという主張から来ているように思われる。

2017/10/9

セラーズの"Science, Perception, and Reality"の三つ目の論文"Phenomenalism"の2章〜3章を読んでいた。1章で「直接実在論」が現象学に限りなく接近していく様子が見られたが、ここでは「古典的現象学」のアプローチが詳しく検討されている。そのアプローチには三つあり、一つ目は感覚することがその対象の実在も含意する立場(esse ist percipi)、二つ目はその対象の実在を否定する立場、三つ目が現象が物理的対象の現れであるという立場(必ずしも対象の実在を含意しない)である。三つ目の立場では"S is in that state which is brought about in normal circumstances by the action on the eyes of a red and triangular physical object."といった命題の形式を持つ判断が行われており、これは現象の直接性を損なっている。3つ目の立場を捨てて二つ目の立場に戻るためには、感覚対象の実在性を否定するためにそれが「現われ」である(つまり3つ目の立場をとる)ということができない。その代案として考えられるのが「感覚する」ということは「通常の場合なら〜という性質を持つ物理的対象によって引き起こされる状態」であると言い換えることで、この場合感覚が対象の実在を必ずしも含意しない。しかしこれでは現象学ではなく実在論であり、二つ目の立場も行き詰ることになる。そこで現象学を支持する哲学者たちは二つ目の立場を変更するか、一つ目の立場、つまり「センスデータ論」に行き着くのである。おそらくここでは物理的対象とセンスデータはだいたい同じものを指している。ここで素朴実在論と古典的現象学は限りになく同じ主張をしていると考えることができる。

さて、センスデータ論においては感覚されているものが存在するものであるが、感覚されていないものが存在しないということは直観に反する。そこで彼らは「可能的感覚内容(possible sense contents)」というものを持ち出してくる。これはあるセンスデータが与えられた状況において、次にある行動をすると必ず現れるセンスデータのことである。こうすると火を見ていないときでも、次に目を開けると火を見ることが明らかならその火は可能的感覚内容として存在していることになる。しかしながらこの可能的感覚内容は今の例のように「目」などの物理的語彙によってしか定義できない。しかしセンスデータ論においてはそのような物理的対象はセンスデータとして定義されているから、ここで定義は循環してしまうのである。そこで代案として可能的感覚内容ではなく、経験からの帰納的一般化によって感覚されていないセンスデータを基礎づけようという試みが生まれる。しかし、個人の経験において一般化されるのはあくまで個人の環境や個々の対象についてのものでしかない。

Thus, the very principles in terms of which the uniformities are selected carry with them the knowledge that these uniformities are dependent uniformities which will continue only as long as these particular objects constitute one’s environment, and hence preclude the credibility of the generalization in sense content terms which abstract consideration might lead us to think of as instantially confirmed by the past uniformities.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1786-1789). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

感覚の間主観性は経験からの一般化ではなくむしろ、「人」や物理的対象についての公的なフレームワークであると述べられている。

The fact that the noticing of complex uniformities within the course of one’s sense history presupposes the conceptual picture of oneself as a person having a body and living in a particular environment of physical things will turn out, at a later stage of the argument, to be but a special case of the logical dependence of the framework of private sense contents on the public, intersubjective, logical space of persons and physical things.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1790-1793). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

このフレームワークはおそらくmenifest imageのことを指しているのだろうと考えられる(違うかもしれない)。

2017/10/5

息抜きに読んでいる丸山真男セレクションの『肉体文学から肉体政治へ』という論考が面白かった。文学などの「フィクション」と社会制度が重ね合わされていて、鋭い視点だと思った。社会契約などの社会制度は人間の知性がなんらかの目的のために作り出したでフィクションであり、その成立以前にはひたすらに自然物として、明確に意識されない慣習としての社会があった。後期スコラ哲学において唯名論が台頭した後、それを継承した形で社会契約説が生まれたと丸山はいう。このような人間が作り出した、自然物でないという意味でのフィクションを信頼し承認する態度が近代という時代を作り上げるのである。しかしこのフィクションが慣習となり固定されるとそれはまた自然物して意識に上らないようになり、自己目的化してしまう。そうすると今度はナチズムなどが現れてくるのだと言われている。このフィクションはデネットに言わせれば"intelligent design"ということになるだろう。またフィクションという言い方は"user-illusion"とかいっているのと繋がる表現だと思う。デネットの思考を社会学方面に広げる可能性が感じられた。