2017/7/24

ニーチェ道徳の系譜』『禁欲主義的理想は何を意味するか』を読んでいる。ニーチェのいう「反感(ルサンチマン)」はどうやらショーペンハウアーの「否定意志」(=「禁欲主義的理想」)を指しているのらしいという発見があった。その上でこの禁欲主義的理想が生の否定ではなく「生を維持する」ことに役立つと述べられている。ここはまさに私の卒業論文のテーマであり私の卒業論文のテーマであり注目ポイントだ。どうやら禁欲主義的理想には「弱者」たちの「反感」を弱者たち自身に向けさせることで「強者」たちがそれに毒されないようにするという意義があるらしい。さてここで思うのはニーチェはかなり素朴に優生思想を信じているらしいということだ。強者が弱者から保護されなければならないというのは確かにそうかもしれないが、今日強者である人が明日弱者になっていないという保証はどこにもない。つまりここでの問題は強者と弱者を固定的な階層だと捉えている点である。今日の環境が明日も同じものである保証はない。強者と弱者は環境に相対的に決まるものでしかないので、その立場は環境の変化とともに逆転することもあり得る。例えば隕石の落下によって強者であった恐竜は滅び弱者であった哺乳類が栄えることになった。そしておそらく、「反感」を持たない強者というものは存在しない。ある分野で世界一の人間でも、他の分野で自分より優れた人間から見れば弱者たり得るからだ。私たちがニーチェから学ぶことは強者となって弱者を侮蔑することではなく、自分の中に常に巣食う「反感」の危険性やそれと戦う術だろうと思う。

2017/7/21

研究発表のスライドを作るのが大変で気晴らしにまた『道徳の系譜』を読んでいた。今日読んだのは第二論文『「負い目」・「良心の疚しさ」・その他』である。第二節では風習や道徳によって人間が「算定しうべきものにされた」と述べられている。これは恐らくデネットが"Darwin's Dangerous Idea"で言っていた"conversation-stopper"としての道徳という考え方に近いものを指しているのだと思う。つまり道徳に従っていることによってある程度人間の行動が予測しやすくなるために、協調行動が成り立つというものだ。また12節では以下のように述べられている。

ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、及びそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。
(『道徳の系譜』第二論文第12節 p115)

これは例えば目が見るために作られたというような誤謬であると説明されている。つまりこれはダーウィニズムの議論における"adaptation"と"adaptive"という二つの語の違いをさしているものだと思われる。ある時点の環境に対して適応した結果得られた形質が、必ずしも現在の環境にいて適応的なわけではないし、同じ目的のために使われているわけでもない。グールドはこういった事態を特に「外適応」と呼んでいるが、進化のプロセスは基本的にそうなっている。こういった議論は例えばスペンサーなどの社会ダーウィニズム批判で出てきていたと記憶しているが、そこにニーチェが影響を与えたか与えられている可能性があるかもしれない。

2017/7/20

道徳の系譜』の『「善と悪」・「よいとわるい」』を読み終わった。いろいろな部分が本当に面白いのだが、哲学的に興味深かったのは13節だった。ニーチェ形而上学的には「力への意志」=ここでいう「作用」があるだけだから、「作用主体」というものはフィクションである。その作用主体という仮構が、弱者が自身が弱いことを主体の自由のもとで選択したものだと偽るために生み出されたと述べられている。そして自由があるからこそ強者は「弱くあること」もでき、その強さもまた自由のもとで選択される(という偽りが生まれる)。そこにおいて弱いことが道徳的な「功績」として扱われ、強いことに対して不道徳の烙印を押すことが可能となるのである。道徳的な主張も面白いが、ここで作用主体が「言語の誘惑」によって、つまり言語が作り出す誤謬として存在するという点がカント的で面白い。ニーチェもカントやショーペンハウアーといった哲学史の中で自分の思想を展開しているのだなあという発見があった。

2017/7/19

大学生協の本屋で文庫本を3冊以上買うと15%オフになるセールをやっていたので『正解するマド』『パイドン』『道徳の系譜』を買って『道徳の系譜』をちょろっと読んでいた。とりあえずショーペンハウアーの批判があって面白い。ニーチェ曰くショーペンハウアーは世界そのものである「意志」が「利己的である」という理由で、人間そのものを否定したという。個人的にショーペンハウアーが否定意志に至ったのは意志の作動が苦しみしか生まないからだと考えているが、なるほどそういう観点もありうる。なぜなら意志は生への衝動でありひたすら自己の生を追い求めていて、それを利己的と呼ぶことも可能だからだ。そして利己的なものを善と捉える道徳がすでにニーチェの攻撃対象なのだ。またニーチェは「良い」と「悪い」の起源について、「良い」は貴族階級が自分の行為を正当化して使った言葉が起源であると述べている。論証としての正しさがどうというよりなんとも力強い議論で読んでいて非常に楽しい。メタ倫理的な議論だがそれを権力に繋げるのはちょっと身も蓋もなさすぎて本当に良いと思う。

2017/7/18

統計と因果関係のレポートはなんとかやり終えて研究発表の準備の方に戻っている。「アナログ」と「デジタル」という語について考えていたが「連続的」「離散的」と訳した方がわかりやすい気がしてきている。単に英語を日本語に置き換えただけでわかりやすいのは不思議な気がするが、一方で自然なことのようにも感じる。英語よりも日本語の方が使用頻度が高く、背景となる知識や使用履歴が多い。こういったバックボーンが単語レベルでの理解にも関わっているのだろう。そうすると最初に母国語の単語を覚える時はどうやっていたのかというと、アフォーダンス環境と周囲の人間の発音を対応させて習得していくらしい。この辺りはちょうど今日読み返していたDennettの"From Bacteria to Bach and Back"の9章あたりに書いてあった。

Children acquire their native languages by a quasi-Darwinian process, achieving the competences that are the foundation for comprehension by a process that is competent without comprehension.

(Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.196). Penguin Books Ltd. Kindle 版. )

子供はそれが単語だと理解することなく、大人の発声とそのタイミング、それに続く出来事と音を対応させて言語を習得していくのである。この辺りの話も発表に入れようかなあ。うーん。

2017/7/17

次から次へと課題がやってきて、統計と因果関係についてレポートを書いている。因果関係というものについて、私の基本的な見解はショーペンハウアーの(つまり簡素化したカントの)もので、世界に対して人間の悟性が投げ入れるものだというものである。私たちが投げ入れるということは、生物としての私たち人間という観点からも因果関係について分析することが可能であることを意味する。つまり生物としての生存、進化において、世界に因果関係を見出すことに意味があったのである。逆に言えばそのような有用性がなければ因果関係を見出す機能が進化する理由が存在しないことになる。そしてその有用性についてはいくつか考えられる。まず思いつくものとして将来の予測が可能となることである。ある原因を確認すれば次にそれに対応する結果が生じると予測できる。競争相手よりも先を予想できれば優位に立つことができ、生存する可能性が高まる。次に過去方面を考えてみると、知識の整理ということが挙げられると思う。過去の事象を因果関係という形式に整理することによって記憶が簡単になり、また思い出しやすい。そしてその記憶は将来の予測に役立つことで間接的に適応度を高める。

2017/7/15

5ヶ月ぶりに『幻想再帰のアリュージョニスト』が更新されるめでたい日となった。今回も呪術による現実の改変という定番の手法が用いられている。

つまり――ゼドははじめから『黄金』位のコーデを所有するアイドルだった。
 衝撃の事実に凍り付くミルーニャたち。
 女装した三十代男のむくつけき肢体は夜会服に彩られどこかアダルティな雰囲気を醸し出しており、蝶の髪飾りによって彩られたツインテールの白髪と腰の蝶型リボンが小悪魔的な少女の愛らしさを匂わせる。濡れた唇にはうっすらとした紅をさし、爪は吸い込まれるような暗い紫。『女』の所作には照れが無い。淀みが無い。完璧な変装、比類無き女装をしているのだから自分は女に決まっている。

 盗賊王の詐術は、世界を、神々と竜の目すらも欺いた。もうひとつの『黄金』を纏うに相応しい、この迷宮最強のアイドルが降り立った瞬間であった。ツインテールの少女はステップを踏むようにクレイに近付いていく。
(幻想再帰のアリュージョニスト 幕間『罪貨の略奪者』http://ncode.syosetu.com/n9073ca/178/

完璧に女装をしている「から」実体としてのゼドが美少女になるというのは、女性の姿の認識が現実そのものを書き換えていることを意味する。これは観念論的な世界観だが、よく考えれば小説の登場人物は観念であるので何の問題もない。そもそも言語的な認識を直接形成する独立な実体的世界というものが、最近の哲学ではかなり危険な主張ということになっている。セラーズ曰くそれは「感覚与件」によって知識が基礎づけられるという「与件の神話」なのだ。つまり私たちが前もって得ている知識(「完璧な変装、比類無き女装をしている」)が認識に対して多かれ少なかれ影響を及ぼしている。だからその認識を完全に改変できるなら世界すら変えることができるのだ(「盗賊王の詐術は、世界を、神々と竜の目すらも欺いた。」)。これは物語世界にしか妥当しない主張のように思えるが、言語から見れば現実世界も物語世界も同様に超越的に想定されたものである。認識が世界を改変するという論理を記述していること、つまり『幻想再帰のアリュージョニスト』(とこの文章)で行われていることはメタ的な記述であり、その辺りがオブジェクトレベルでの他の小説と一線を画するポイントだろう。