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2017/5/24

大学院の講義でクワインの話があったので聞いていたら気づいたことがあった。道徳の実在論/反実在論の論争に卒業論文で触れたのだが、どうして還元主義的な説明が道徳反実在論につながるのか、さらに言えば道徳を還元しないならなぜ実在論をとることになるのかがよくわかっていなかった。しかしクワインの"On what there is"の話を踏まえると以下のように考えられる。すなわち、道徳的な用語を用いた理論を展開することが、そのような道徳的価値のようなものに対して存在論的コミットメントを行うことになるのだ。反対に道徳を物理的な説明に還元することは道徳的価値の実在へのコミットを避けることなのである。これは志向的実在論/消去的唯物論の対立にも似たところがある。デネットなら道徳的価値の存在にはコミットしないけれども道徳的価値を用いた説明は、例えば時間の節約という意味で有用なので保存される(消去されない)と主張するだろう。道徳的価値が"is"の領域の説明を拒絶する"ought"の領域にあるなら、それはクオリアと同じで道徳についての科学的探究を阻害するものとなってしまう。

2017/5/23

セラーズの"Science, Perception, and Reality"というか"Philosophy and the Scientific Image of Man"を読んでいると原始的な世界観"original image"が洗練されていって"manifest image"が形成されるという話が出てくる。"original image"においては自然界の様々な対象、例えば木は木であると同時に「人」でもあった。それが洗練される中で人という属性を失い、人であるのは現在私たちが人だと考えるものだけになったのである。そして機械はこの変化の中で人でないもの、自動的に動くものとして分類された。しかしそれが再び"manifest image"における人のカテゴリーに侵入しようとしているという様子を描いたのが人間と区別のつかないAIを描いたSF作品だと言えるだろう。これが文学の中だけの問題で済むかどうかには疑問がある。私たちが持つ"manifest image"はこのようにして常に改訂を迫られているのだ。

2017/5/22

デネットの"Sweet Dreams"を読んでいたら意識の「名声」モデルと言うものが登場した。主に脳内のデーモンたちの間の競合という観点から述べられていたが、これを意識の内容という点から見ればハイデガー的な「開示性」とリンクするモデルだと思う。意識にのぼっている対象は「開示」されるものであり、例えばキーボードを見ながらタイピングしているときキーボードが「名声」を得て意識にのぼる。先立って現れてくるものは主観と客観の二項関係よりまずこのキーボードの「現れ」であり、主観/客観というものはそのあとで仮構されたものに過ぎない。"Sweet Dreams"にはこのモデルでは「主観」というものがどこにあるのかという反論があると書かれているが、ハイデガーの論を考えると開示性/名声そのものが現存在であり意識対象と意識主体が不可分なのである。だからこの名声モデルから独立な主観というものを考える必要はない。

2017/5/21

出席しているカントの純粋理性批判を読む演習で前回の講義まとめを作る担当が回ってきたので書いていた。90分の講義の全体を網羅しようとすると3000字くらいになって結構タイヘンである。まあそれはいいとして、そのまとめに新しく因果系列を始めることのできる自由という考え方が登場して少し気になっている。これはいわゆる"agent causation"と言うやつで、形而上学的な自由としてデネットが"Elbow Room"で批判していたものを想起させる。考えてみれば変な話で、一体いかにして個人が因果系列を新しく始めるなどという権能を持ち得るのだろうか。それは世界の創造にも似た神のような所業である。こういった権利を有していると仮定すると、魂という形而上学的な実体を想定せざるをえないし、それが物理的因果系列から独立だと主張しなければならなくなる。そもそも、そのような形而上学的な自由がなければ道徳的に責任を持ち得る個人たりえないという前提が間違っているのだ。さらに言えば世界の進行が事物に内在された物理法則によって決定されるということ自体が誤りである。

2017/5/20

聲の形』のブルーレイが届いたので見ていた。今回気づいたこととして、振動としての音が作中で割と意識的に使われているという点がある。例えば高校生になった将也が硝子に初めて会いに行くシーンでは手すりに触れた時に伝わる振動で硝子が将也の存在に気づく。次に花火のシーンでは硝子が花火の音を振動として楽しんでいる様子が見受けられる。そして西宮家から転落した将也が目覚めて二人が橋の上で出会うシーンでも同じく手すりの振動によって相手の存在に気づいている。このように耳以外によって伝達される意味は別の『聲の形』としてこのタイトルが示唆するところであるだろう。言語以外にも手話、振動、表情など意味を伝達する手段が存在していて、言語に頼る私たちはそれを見逃しがちなのかもしれない。

コミュニケーションについて、クオリアの存在を信じていた時期はその伝達不可能性を問題視していた。クオリアが存在しないなら、おそらく言語化できるものは全て伝達可能である。そして言語化されないものでも、例えば痛みを感じた時の反応を見た人にその痛みは伝わる。なぜなら、主観的な「痛み」は存在せずあるのは神経的な刺激とその反応だけだからだ。そして表面的な身体の反応だけでなく、神経の動きを全てモニターできるなら人の痛みは余すことなく伝達することができる。それならばなぜ、人はこんなにも他者の痛みに鈍感なのだろうか。おそらくは、その神経的な反応を言語によって解釈する際に齟齬が生じるからなのだろう。ある人の「痛み」という言葉の使用と他の人のそれは必然的に異なっている。同じ器質を持っているとしても過去触れてきた語の使用の経験が異なっているからである。

2017/5/18

"Sweet Dreams"を読んでいたら「メアリーの部屋」と「スワンプマン」の思考実験を組み合わせた「スワンプメアリー」というコンボ技が出てきて大笑いしてしまった。色を見ることについての物理的情報をすべて持っているが白黒のものしか見たことのないメアリーが外に出る前に、雷が落ちて色を見た後のメアリーと物理的に同じメアリーに変化したとしたら、部屋を出たスワンプメアリーは色を見て驚くのだろうか。私としては「メアリーの部屋」自体が直感ポンプに過ぎないというデネットの主張に同意しているのでこのようなバリエーションを考えようとも思わないが、これはなんだかギャグの領域に片足を突っ込んでいる気がする。ところでデネットが直感ポンプと呼びながらもこのような思考実験を行うのはなぜだろうか。思うに直感を汲み出すことを論証として使うデネットの論敵に対して、デネットは汲み出した直感を批判するために思考実験を使っているのかもしれない。

2017/5/17

最近以下のようなことを少し考えている。表象、クオリア、感覚与件などの非言語的な心的対象が存在するなら、それに対して非言語的な「私」があるということになる。デネットは「私」は人間の振る舞いを物語的に捉えた時の主語だと述べているが、これは純粋に言語的な「私」である。つまりデネットは非言語的な「私」を認めず、この点からも彼が非言語的な心的対象を想定していないことがわかるだろう。しかしながら、非言語的な「私」とはなんだろうか。たちどころに「魂」につながりそうな気配のある概念である。この身体の中心的な制御機構ということなら脳が非言語的な「私」ということで良さそうだが、その脳の中にも様々なモジュールがあり統一的な「私」とは言えないかもしれない。いや、脳が「私」だと述べている段階でそれは言語的なのだろうか。いやいや、「非言語的な「私」」と述べている時点でそれは言語的な概念であるような。どうやらこの方向は手に負えそうにないのでやめておこう。単に私が考えるべきことは認識対象には認識主体が対応するということだろう。これはショーペンハウアーが第一に明らかなこととして主観と客観の二分法を認めたことが大元である気がする。最近ショーペンハウアーのことはあまり考えていないつもりだが、自分の思考の源流に依然として位置していることをよく発見している。