2017/10/13

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の三つ目の論文"Phenomenalism"の最後の章"VIII. Beyond Sense Impressions"について。ここまでの論述で現象学というものがボコボコにされ終わり、その帰結を何点か確認するセクションになっている。現象/感覚対象として現れるようなものの実在まで主張できないことにより、それら物理的対象すなわち単一の論理的主語は、理論上想定される複数の主語の集合体ということになる。そうするとその単一の主語に述語づけられていた「色」などの性質は、複数の主語の集合体に述語づけられていることになる。こうなると何が「色」という性質を持っているのかという問いに答えることが難しい。ここでまた同様に感覚の主体であり単一の主語と考えられていた「人」も複数の主語の集合体として考えられることになる。例えばカントは「超越論的統覚」として単一の主語である「人」を定義していて、これは人が複数の主語の集合体であることと矛盾しないシステムである。しかし、そこで感覚印象というものの所在は本格的に不明となる。そこで例えば非物質的な実体としての「人」を想定したり、個々の感覚を(非現象学的に)新しいカテゴリーの主語として考えるという代案が出てくる。

We must therefore either introduce another logical subject (an immaterial substance) to do this work, or turn each sensing into a logical subject in its own right, i.e. introduce a new category of entity (“phantasms” or “sensa” we might call them) with predicates the logical space of which is modelled on that of visual impressions, as the latter was modelled on that of coloured and shaped physical objects.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.2132-2135). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

そしてこの"sansa"が「色」などの性質を担う新しい主語ということになる。次に問題となるのがそれらはどこにあるのかということである。

It is, indeed, true, from the standpoint of this sophisticated framework that when a person sees that a physical object is red and triangular on the facing side, part of what is “really” going on is that a red and triangular sensum exists where certain micro-theoretically construed cortical processes are going on; but it would be a mixing of frameworks to say, with some philosophers, that people “mistake sensa for physical objects,” or “take sensa to be out there.” For these latter ways of putting it suggest that sensa belong to the conceptual framework in terms of which people experience the world.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.2167-2171). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

それは当然脳の中ということになるだろう。しかしsensaは感覚対象とならないことから、すでに科学的イメージにおける対象となっている。それゆえ「sensaと物理的対象を取り違える」「sensaが外側にある」といった言明は、二つのイメージを混同していることになる。要するに、クオリア現象学的な感覚という概念を現象学の枠内で定義できないことから、物理主義的な枠組みの中で定義しようとして生まれる概念ということになるだろう。現象の性質の実在性を捨てられないから、どの脳神経が感覚質を実現するのかと問うことになるのである。

2017/10/11

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の三つ目の論文"Phenomenalism"、"IV. The New Phenomenalism"について。新現象学と呼ばれるアプローチでは古典的現象学(第一のアプローチ)での問題である現象の法則性についての説明を、演繹的に想定される観察不可能な対象に求める。「仮説演繹的実在論」と呼ばれる立場同様、ここでは観察されない対象も仮説が想定するなら(第一義的にではないにせよ)存在するとされる。それを認めた上で、例えば赤い三角形aを見た後にもう一度目を開くと赤い三角形a'が見えるという法則を、そこに観察されない対象が(現象として)存在し続けることから説明する。これはほとんど「可能的感覚内容」と呼ばれた考え方と同じであるように思われる。さて、セラーズ曰く観察不可能なものを想定する理論は観察可能なものを補足説明するものではなく、観察可能なものによる帰納的な一般化と一つ一つの法則それぞれが対応するものであるらしい。そう考えると新現象学による説明は、観察内容の理論と物理的な(観察不可能なものについての)理論をそれぞれ独立に作り上げた後で、それらを対応させなければならないことになる。しかし「可能的感覚内容」の章で見たように観察内容の理論を物理的な語彙を用いずに作ることはできない。

To claim that the relationship between the framework of sense contents and that of physical objects can be construed on the above model is to commit oneself to the idea that there are inductively confirmable generalizations about sense contents which are “in principle” capable of being formulated without the use of the language of physical things. If the argument of the preceding section was successful, this idea is a mistake.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1849-1852). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

この観察可能なもののフレームワークと観察不可能なもののそれを対応させる「対応原理」は、「明示的イメージ」「科学的イメージ」がそれぞれ独立であるという主張から来ているように思われる。

2017/10/9

セラーズの"Science, Perception, and Reality"の三つ目の論文"Phenomenalism"の2章〜3章を読んでいた。1章で「直接実在論」が現象学に限りなく接近していく様子が見られたが、ここでは「古典的現象学」のアプローチが詳しく検討されている。そのアプローチには三つあり、一つ目は感覚することがその対象の実在も含意する立場(esse ist percipi)、二つ目はその対象の実在を否定する立場、三つ目が現象が物理的対象の現れであるという立場(必ずしも対象の実在を含意しない)である。三つ目の立場では"S is in that state which is brought about in normal circumstances by the action on the eyes of a red and triangular physical object."といった命題の形式を持つ判断が行われており、これは現象の直接性を損なっている。3つ目の立場を捨てて二つ目の立場に戻るためには、感覚対象の実在性を否定するためにそれが「現われ」である(つまり3つ目の立場をとる)ということができない。その代案として考えられるのが「感覚する」ということは「通常の場合なら〜という性質を持つ物理的対象によって引き起こされる状態」であると言い換えることで、この場合感覚が対象の実在を必ずしも含意しない。しかしこれでは現象学ではなく実在論であり、二つ目の立場も行き詰ることになる。そこで現象学を支持する哲学者たちは二つ目の立場を変更するか、一つ目の立場、つまり「センスデータ論」に行き着くのである。おそらくここでは物理的対象とセンスデータはだいたい同じものを指している。ここで素朴実在論と古典的現象学は限りになく同じ主張をしていると考えることができる。

さて、センスデータ論においては感覚されているものが存在するものであるが、感覚されていないものが存在しないということは直観に反する。そこで彼らは「可能的感覚内容(possible sense contents)」というものを持ち出してくる。これはあるセンスデータが与えられた状況において、次にある行動をすると必ず現れるセンスデータのことである。こうすると火を見ていないときでも、次に目を開けると火を見ることが明らかならその火は可能的感覚内容として存在していることになる。しかしながらこの可能的感覚内容は今の例のように「目」などの物理的語彙によってしか定義できない。しかしセンスデータ論においてはそのような物理的対象はセンスデータとして定義されているから、ここで定義は循環してしまうのである。そこで代案として可能的感覚内容ではなく、経験からの帰納的一般化によって感覚されていないセンスデータを基礎づけようという試みが生まれる。しかし、個人の経験において一般化されるのはあくまで個人の環境や個々の対象についてのものでしかない。

Thus, the very principles in terms of which the uniformities are selected carry with them the knowledge that these uniformities are dependent uniformities which will continue only as long as these particular objects constitute one’s environment, and hence preclude the credibility of the generalization in sense content terms which abstract consideration might lead us to think of as instantially confirmed by the past uniformities.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1786-1789). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

感覚の間主観性は経験からの一般化ではなくむしろ、「人」や物理的対象についての公的なフレームワークであると述べられている。

The fact that the noticing of complex uniformities within the course of one’s sense history presupposes the conceptual picture of oneself as a person having a body and living in a particular environment of physical things will turn out, at a later stage of the argument, to be but a special case of the logical dependence of the framework of private sense contents on the public, intersubjective, logical space of persons and physical things.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1790-1793). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

このフレームワークはおそらくmenifest imageのことを指しているのだろうと考えられる(違うかもしれない)。

2017/10/5

息抜きに読んでいる丸山真男セレクションの『肉体文学から肉体政治へ』という論考が面白かった。文学などの「フィクション」と社会制度が重ね合わされていて、鋭い視点だと思った。社会契約などの社会制度は人間の知性がなんらかの目的のために作り出したでフィクションであり、その成立以前にはひたすらに自然物として、明確に意識されない慣習としての社会があった。後期スコラ哲学において唯名論が台頭した後、それを継承した形で社会契約説が生まれたと丸山はいう。このような人間が作り出した、自然物でないという意味でのフィクションを信頼し承認する態度が近代という時代を作り上げるのである。しかしこのフィクションが慣習となり固定されるとそれはまた自然物して意識に上らないようになり、自己目的化してしまう。そうすると今度はナチズムなどが現れてくるのだと言われている。このフィクションはデネットに言わせれば"intelligent design"ということになるだろう。またフィクションという言い方は"user-illusion"とかいっているのと繋がる表現だと思う。デネットの思考を社会学方面に広げる可能性が感じられた。

2017/10/3

セラーズの"Science, Perception, and Reality"の二つ目の論文"Being and Being Known"の後半部分"The Isomorphism of the Intellect and the Real"を読んでいた(二回目)。ここでは知性と物理的な世界の間のアナロジー関係というものが詳細に語られている。前半部分で感覚についての物理世界との同型性が説明されていて、その延長となっている。知性においては同型(isomorphic)であることは写像であること(picturing)と意味すること(signifying)の二種類がある。写像であることは"real order"に属すること、意味することは"intentional order"に属することであり、それを混同することが様々な誤りにつながっているとセラーズはいう。写像であることはある言語的なパターンが物理的世界のパターンと同型であることで、これは感覚によって結び付けられている。この写像はどこまでも物理世界に属するので、例えばAIの回路、私たち人間の脳神経と同一視できる。反対に意味することは例えば「Menschは英語のmanを意味する」といった用法で使われる語で、これはある言葉が物理的対象と同型であることを意味しない。むしろそれは言葉同士、言語同士の同型性を意味するのである。さて、先に登場したmental wordというものは発話される言語とは別々に物理的世界と写像関係にある。このmental wordが発話される言語と同じ意味を持つと考えられる、つまり同型性を持つアナロジーの関係にあることで、私たちの思考は言語のように見えるのである。こうしてmental wordは言語だと錯覚されて、非物理的なものという地位を与えられることになる。また、アリストテレス的な形相が生じるのも、本来言葉同士の間の同型性である「意味すること」が言葉と物理的対象の写像関係だと勘違いされてしまうことによると説明されている。すなわち「manは"人"を意味する」が「manは"人"の写像である」となると、「人」の形相が非物質的に存在することになるのである。

2017/10/2

セラーズ"Science, Perception, and Reality"の二つ目の論文"Being and Being Known"を読んでいる(二回目)。前半部分ではトマス的な認識論のシステムの批判として大変込み入った議論が展開されている。ちゃんとわかっているのか微妙だが頑張って要約したい。まず思考とその内容を分けるという発想を批判して、それらを統一したものである"mental word"が登場する。ところで知性(思考)はトマスのシステムにおいては「第一の働き」と「第二の働き」に分けられる。第一の働きはある内容を思考する性向であり、mental word、タイプなどと言い換えられている。対して第二の働きは個別の思考、トークンである。mental wordは物理的な対象の持つ性質とは違うものと考えられる。なぜなら物理的に三角形であることと三角形を考えることは異なっているだろうからだ。またmental word(タイプ)から知性のトークンが形成されるためには、物質と非物質のどちらにも作用する"absolute nature"が必要となる。こうして物質的なものと非物質的なものを仲立ちするのは感覚である。

The existence in the intellect of the word •triangular• as habitus is, to continue our exposition, grounded in the immaterial existence of the absolute nature triangular in the faculty of sense.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.986-988). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

感覚というものについて、知性との言語的な類似性からそれと似たものと考えられる傾向があるという。そうすると感覚にも知性のそれと似た構造があることになる。そうなると感覚にもmental word的なものがあり、それは非物質的なものとなる。これがおそらくクオリアで、しかしそういった想定をすると、非物質的な感覚と物質的な性質を結びつけるものがさらに必要になるのだと思う。これは無限退行であり、あまり歓迎できない。そこでセラーズの出す代案は以下のようなものになる。

The alternative I am recommending is to say that none of these words are present in the act of sense, for it does not belong to the intentional order. To which it can be added that the predicative word •white• doesn’t make sense apart from statement; •white and triangular thing•  presupposes •(this) thing is triangular•. Predicates cannot be in sense unless judgement is there also.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.1088-1091). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

物質的な対象と感覚は確かに別物に思えるが、それは感覚が非物質的なものだということではなく、感覚が「白」「三角形」という言葉の派生的な意味を持っているということなのだ。物質的なものと感覚は「同型(isomorphism)」であり、アナロジーの関係で繋がっている。こうして物理的なものと同型な感覚は知性の非物質的なmental wordに作用するに至る。また個々の感覚が指向性を持たないということは、それが何かについてのものではないということであり、個々の感覚として知識を構成することがない。知識は物理的世界と同形性によってアナロジカルに繋がっている言語、その全体性の中で形成されることになる。

2017/9/29

今日もScience, Perception, and Realityの"Philosophy and the Scientific Image of Man"を読み返して見つけたところを書いておきたい。一つは以下の部分でこの前の箇所でSellarsは感覚を神経生理学的なプロセスに還元することは現状では難しいと述べている。その根拠は物理的なものが微粒子の集まりで、それぞれのスケールで別の性質が現れるとしたら、それによっては感覚の持つ「究極的同質性」を説明できないからだそうだ。

Is there any alternative? As long as the ultimate constituents of the scientific image are particles forming ever more complex systems of particles, we are inevitably confronted by the above choice. But the scientific image is not yet complete; we have not yet penetrated all the secrets of nature. And if it should turn out that particles instead of being the primitive entities of the scientific image could be treated as singularities in a space-time continum which could be conceptually “cut up” without significant loss—in inorganic contexts, at least—into interacting particles, then we would not be confronted at the level of neurophysiology with the problem of understanding the relation of sensory consciousness (with its ultimate homogeneity) to systems of particles.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.844-850). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

しかしLadymanらが"Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized"で言っていたように物理学の対象がすでに粒子ではないなら、この点は解決されたことになる。というよりも、物体が小さい粒子によって構成されているというモデルが崩壊するのだから、そもそも物理主義的な還元主義というプログラムが瓦解するのだろう。しかしその事実と脳神経と感覚の間の還元という問題は別物ではないだろうか?何が言いたいかというと、物理的対象が微粒子の集合でないとしても、それが部分と全体の関係を持つシステムであるということはあり得るということだ。個人的にはむしろDennttやLadymanらのような還元不可能性の方を支持したい気持ちになる。

あと目についたのが以下の部分で、初めてこの辺りを読んだときは全然意味不明だったので新鮮さがあった。

Thus the conceptual framework of persons is the framework in which we think of one another as sharing the community intentions which provide the ambience of principles and standards (above all, those which make meaningful discourse and rationality itself possible) within which we live our own individual lives.
(Sellars, Wilfrid. Science, Perception, and Reality (Kindle の位置No.900-903). Ridgeview Publishing Digital. Kindle 版. )

以前書いたmanifest imageにおける"person"というものの扱いを思い出すと、personたちは性格や本性の他に意図的な行為を行うことができる。こうした意図の共有によって繋がるのが共同体であり、その共有こそが道徳や規則なのだ。性格や本性は予測可能な振る舞いについての説明であり、こうした共同体はそうした振る舞いによっては構成されていない。むしろそれを構成するのは意図的行為の公準となる道徳や規則に従った意図的行為である。Dennettがいうように道徳がある程度お互いの振る舞いを予測できるようにするための"conversation-stopper"なら、道徳は本来予測できないこのレベルの振る舞いを強引に予測しようとする発明品と言えるかもしれない。