読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2017/3/22

酉島伝法『皆勤の徒』を読み終えた。圧倒的に異質な世界を漢字とルビを様々に組み合わせた造語の濁流で表現していくSFで久しぶりに脳神経が焼かれる感じがした。異質さという点で円城塔の『Boy's Surface』を読んだ体験に似ているし、グロテスクさという点で吉村萬壱の小説を読んでいる時のような気分になる。巻末に付された大森望の解説を読むまで時系列や出来事の正確な意味がつかめなかったのが悔しいような気がする。

デネットの"From Bacteria to Bach"に理解(comprehension)と能力(competence)の関係について書かれている部分があった。曰く、完全な機械を作るためにその作り方を知っている必要はない。進化のプロセスは「理解」という現象なしに我々人間のような生物を作り上げるからだ。ダーウィンチューリングもそのようなことを主張しているのである。

Here is another reason (is it how come or what for?): Both Darwin and Turing claim to have discovered something truly unsettling to a human mind— competence without comprehension.(Dennett.D From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds 2017)

アルバイトで数学などを教えるとき、とにかく体系的な理解を優先してしまう傾向があった。しかし"competence without comprehension"が可能なら数学の体系を理解していなくても反復演習だけで問題は解けてしまうのだ。このあたり少し自身の考え方を反省する必要を感じた。

2017/3/21

昨日から体調が悪くて12時間寝た上に2時間昼寝したりしていた。よくこんなに寝れるものだと自分に感心してしまう。遺伝子の適応度という観点からは、ずっと寝ていてたまに起きて生殖するのが最適だという話を聞いてから、寝ているのが時間の無駄だという考え方を捨ててしまった。生きるのが何のためなのかもわからないのに、寝ている時間が無駄だと主張するのは少し早計だろう。

『雨の日のアイリス』というライトノベルを読んだ。

僕はロボットだけど、人間の天国に入れてもらえるでしょうか。(松山剛『雨の日のアイリス』)

ネタバレになるので詳しくは書かないが、以上のような一節にとても感動した。心身二元論に従うなら、人工知能には人間のような魂はない。そして天国や転生といったものによる宗教的な救いが魂の存在やその不滅性に基づくなら、彼女ら人工知能にそのような救いはありえないだろう。人工知能が人間と全く同じ振る舞いをしたとしても、それが「真の」人間でないという理由からそうなのである。そんな宗教は本当に正当だと言えるのだろうか。もし仮に目の前に人間と区別できない機械がいたとして、彼女に絶対に人間のような救いが与えられないということに、私は耐えられそうにない。

2017/3/19

存在と時間』第三分冊の読書ノートを書き終わった。そういえば書いていなかったが読んでいるのは岩波文庫版であと1冊ある。立てていた予定は3月中に第三分冊まで読めればいいなという程度だったので、ここからボーナスステージ(?)ということになる。

そのあとは引き続きデネットの"From Bacteria to Bach"を読んでいた。デザインの次にそれを正当化する「理由(reason)」が議題となる。理由には「どうして(how come)」と「何のために(what for)」の二種類があるという。進化の途上で前者しかなかった世界から後者が生まれてくるが、その発生に明確な線引きはできない。そしてこの「何のために(what for)」によって「良い」デザインと「悪い」デザインが区別され、自然選択が発生する。だからこの理由の進化が「ダーウィニズムにおける進化(Darwinism about Darwinism)」と呼ばれるのである。

デネットはデザインと同じようにこの理由も私たちが見出して初めて存在するものであると考えているようだ。道徳における反実在論と似た立場であるように思う。

The space of reasons is created by the human practice of reason-giving and is bound by norms, both social/ ethical and instrumental (the difference between being naughty and being stupid).(Dennett.D From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds 2017)

しかしその一方で私たちが見出さなくても理油は存在していると言ってる箇所もある。

So there were reasons long before there were reason-representers— us.(ibid)

ただし

Free-floating rationales(上の箇所で言われている"reasons") are no more ghostly or problematic than numbers or centers of gravity.(ibid)

と述べている点から、その理由が実在的なものだとは考えてないように読める。ここで言われているのは、私たちが理由空間を構築する以前に進化が存在しないことになるのでは、という批判への反論だというのが現状の私の解釈だ。

2017/3/18

今日は京大応用哲学センターがやっている「哲学カフェ」に参加した。あまりよく知らないで行ったのだが、活発にディスカッションできて楽しかった。その中でどうにも自分の意見が伝わっていないな、と思った時がある。「信念の環境が変われば対象そのものが変わっているから、認識の仕方や持つ感情も変わるのでは〜」ということを言っていたがあまり理解されていないように感じた。ここで気づいたのが、自分は基本的に表象による認識モデルに拠って考えているが、哲学をやっていない人は素朴実在論に基づいて考えているということだ。素朴実在論とはつまり、「信念がどうあろうと対象は確固としてそこにあって私たちはそれを見ている」という考え方である。哲学をやっていると表象モデルとかプラトンの「洞窟の比喩」モデルといったものが当然考え方の選択肢に入ってくるが、哲学をやっていない人によってはそうではない。そうだとすると、こういったモデルに基づく発言は全然通じないということになってしまう。というか、通じなくて普通なのである。この点に気づくことができただけでも参加した意義あったと思う。

2017/3/17

今日はひたすらこんな図を作って過ごした。『存在と時間』第二篇第一章〜第三章あたりの内容を表現したかったのだろうと思う。
f:id:Re_venant:20170318002513p:plain
実際には個々の状況は三次元的なので、これは二次元に落とし込んだ模式図ということになる。自分ではうまくできたと思うのだが、ハイデガーを読んだことのない人に伝わる気がしない。それぞれの状況は可能性の数だけある「可能世界」ということになるだろう。どうにも「気づかい」の連関としての世界と瞬間ごとに「死」という終わりの可能性を持っている現存在を同じ次元で表現するのは正しくない気がするので、このような図になった。「状況」上の点が現存在と言えるし、縦軸の棒が「死」に先駆した現存在全体も考えられる。この棒が各状況を貫くまで世界にはこれといった定点はなく、すべての存在は気づかいとして溶け合っている(頽落)。だからこの棒は現存在を個別化する(点を作り出す)死への先駆的決意性なのだ。死は気づかいの終点なのでそこから気づかいが発せられることはない。反対に個別化された現存在は気づかいの始点であり、決意として新たな気づかいの連関をスタートさせる。

ただ第二篇第四章以降で展開される時間性についての議論は入っていないので、その辺りを入れるとこの図はまた変化するだろう。そもそも幾何学的に図示できない可能性は大いにあると思うが。

2017/3/16

今日も『存在と時間』を読んだり"From Bacteria to Bach"を読んで過ごした。他にはケン・リュウの『紙の動物園』読んでいる。時にSF的な、時には幻想的な舞台装置を用いながら家族愛、生命、文化などを鮮やかに描き出していてとても良い。『円弧』『波』などの短編ではテクノロジーによって不老になった人々が様子が描かれている。死を喪失した人は自分の生についてどのように考えるのだろうか。

「あなたに死んでほしくない。死が生に意味を与えるというのは神話だわ」(ケン・リュウ『紙の動物園』/『円弧』)

しかしここで思うのが、老化を克服することで死そのものが消失したのだろうか、ということだ。例えばこの『円弧』という短編の設定では不老の治療をやめて死を選ぶことも可能である。そうでなくても、様々な事故によって体組織が不可逆的に破壊されれば不老だろうと人間は死ぬ。ハイデガーによれば、死はあらゆる瞬間に人間に備わった「可能性」である。人間の生が物理的なパターンとして完全に説明されたとしても、パターンすら破滅を避けられない。そしてハイデガーは、死という終わりがあって初めて「世界」と「私」は二つのものとなり得る、と言う。

「恋に落ち、愛を失うこともある。すべての恋愛と結婚にすべての友情ときまぐれな出会いに、円弧(アーク)があるの。はじまりと終わりが。寿命が。死が。もしあなたが求めているものが喪失なら、あなたがすればいいのは、待つことだけ」(ibid)

「死」がこの「私」の死だという考えすら、すでに「魂」とか「主体」を前提とした二元論の産物なのではないか。純粋な「私」という神話を捨てた時、第一に存在するのは「世界」において気づかわれるそれぞれの「手元にあるもの」でありそれぞれが「私」だと言える。そしてそれらそれぞれには独自の終わりがある。ここで「死」は「私」から「世界」へと解き放たれるのだ。

2017/3/15

今日は『存在と時間』読解のノルマが夕方に終わったのでデネットの"From Bacteria to Bach"を読んでいた。『存在と時間』は方法論の話が始まったので昨日の分ほど面白くはない。ただ論点先取というか、前提から導かれたものがその前提を導出する循環を許容する考え方は面白い。「世界の中に存在する私」「私からしか見えない世界」という二つがすでにループ構造を持っている。ニーチェにとっては世界自体が無限にループする。このように哲学は循環に満ちているが、哲学の方法論そのものにこういったループを許容するのは珍しい気がする。

"From Bacteria to Bach"の読んだ箇所では「物理」「デザイン」「志向性」の三つのレベルを区別する考え方が出てきた。デザインはアリストテレスの四原因でいう「目的因」を持っている。無心論者デネットにとってのそれは当然神によるデザインではない。ならば存在するのは物理的な「アルゴリズム」だけであり、デザインやその目的因というのは「どこ」に存在するのだろうか。どうやらデネットは進化の産物を「リバースエンジニアリング」する私たちの頭の中にそれがあると考えているようだ。以下に該当部分を引いておく。

The chief difference between the reasons found by evolution and the reasons found by human designers is that the latter are typically (but not always) represented in the minds of the designers, whereas the reasons uncovered by natural selection are represented for the first time by those human investigators who succeed in reverse engineering Nature’s productions.(Dennett.D From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds 2017)